シムラー第五の島に渡る橋の終点近くには、壁も屋根も青い建物が建っていた。橋はその建物の下をくぐるようにして第五の島に続いている。アーチを描いた建物の下を通り抜けると、第五の島が見える。それは何も無い真っ平らな土地だった。
ブライスが驚いてデクトを振り返った。
「おい、ここには何もねえぞ」
神官デクトがうなずいた。
「第五の島は、島全体が炎の座なのです。私達はセルダン王子が試練を受けている間、この橋の上の建物で待つ事にいたします」
一行の先頭に馬を進めて島を眺めていたセルダンは、鞍からスタンと飛び降りると、カンゼルの剣を鞘ごと肩にかついで歩き出した。それを見たデクトがあわてた。
「セルダン王子、ここでの試練は守護者の方々の試練の中では最も厳しいものになるはずです。その前に体を休めてください」
セルダンはなぜかぼんやりとした顔で振り向いた。
「いや、いいよ。このまま行く」
「駄目よ、セルダン」
エルネイアが馬の上で叫んだ。セルダンは振り返ると馬上の王女を指さした。
「そのスカートで暴れちゃだめ」
エルネイアはあわてて短い裾をおさえた。
「だって、試練の最中になぜか短くなっちゃったんだもん」
セルダンは肩で剣をかちゃりと鳴らした。
「眠っているアーヤはともかく、僕はここまで待たされ過ぎた。片づけてくるよ」
魔術師マルヴェスターがエルネイアの馬の下に立った。
「エル、行かせてあげなさい。セルダン、聖なる剣はこの戦いを始めた聖宝だ。これは重い試練と思えよ」
王子はうなずいた。
「ええ、わかっています」
セルダンは皆に背を向けると、ゆっくり歩を進めて橋を渡り終えた。後ろからフオラが着いて来たが、王子は気にとめなかった。
島の柔らかい土の上を少し歩いた後、セルダンは不思議そうな顔をして靴の底を調べた。何も無い島の地面が暖かく感じられたのだ。
(この地面の下に何か大きな力があるようだ)
カインザーの王子は故郷にあるライア山の山頂で、クライドン神の結界に足を踏み入れた時の事を思い出した。ここには神の結界は無かったが、今感じているのは、その時の緊張感によく似ている。
いつの間にか周りが霧にかすんできていた。気がつくとフオラが横に並んでいて、いななくように話しかけた。
「急ぐのなら乗れよ」
セルダンは横に並んだ栗毛の馬に目を向けた。その時初めてフオラの鼻白の中に六つの星のように栗毛の点が散っている事に気が付いた。セルダンは馬の星を手でなぞった。
「アムロリラ女王の馬だ」
フオラはフフンと鼻を鳴らした。
「違う。アイシム神の子供達の馬さ」
「そうか」
王子は剣に紐をかけて背中に背負うと、裸馬の背に乗った。
霧の中をフオラは走った。ドコドッドコドッと馬蹄の響きが霧の中に響く。しかし木霊は帰って来ない。セルダンはフオラのたてがみに頬を寄せて、目の前でヒコヒコする耳に話しかけた。
「君はこうやってみんなの試練を見てきたんだね」
「うん」
「僕の前の四人は勇敢だったかい」
馬は少し考えてから答えた。
「必ずしも勇敢では無かったかもしれない。だけどみんな強かったよ。何が起きても進んでそれに立ち向かい、解決していった」
セルダンは無言だった。
「どうしたの、剣の王子」
「昔、ブライス達に言われた事がある。僕がシャンダイアの王になったかもしれないと。幸いアーヤが帰ってきてくれたので女王が出来たけど、実際にシャンダイア軍を率いるのは僕になるはずだ」
「そうなりそうだね」
「ずっと悩んでいた。僕にシャンダイア軍、いやカインザー軍ですら率いる事が出来るのかと」
「なぜ」
「僕には父のオルドンのような威厳は無い。トルソンやベロフのように強くも無く、クライバーのような勇気や、ロッティやカイトのような頭脳も無い。アシュアンのように気が付くわけでもないし、ランバンやテューダのような経験も無い」
「それで」
「皆が僕についてきてくれるとしたら、それは僕がカインザーの王子だから。聖宝の守護者だから。でもそれだけでは戦いに勝てないと思う」
「本当にそれだけで、みんなが君について来るのだと思うかい」
「わからない」
「じゃあ、それを確かめに行こう」
フオラの蹄の下の乾いた土の中に赤い割れ目が現れた。地面の下が燃えている。セルダンが背中に背負った剣を抜いて一振りすると、地面の下から炎がわき上がって剣に吸い込まれた。
「さすが炎の神の子」
「剣が何をするべきか知っているのさ」
その時、目の前の地面の上に陽炎がたちあがり、黒々とした生き物の群れが現れた。大柄なとかげの姿が見える。
「とかげ兵ブールか」
セルダンが剣をかかげようとした時、手の中から剣が消えた。それに気がついたセルダンは片手でフオラの背中を叩くと、転げるように馬の背から飛び降りた。
「どうしたの王子」
「フオラ、離れろ」
「どうして」
「試練が始まった。これは僕の戦いだ」
フオラはたたらを踏むと、素早く向きを変えてその場を離れた。
緑の巨体をうならせてブールがセルダンに襲いかかった。セルダンは先頭のブールの腰に組み付くと、相手の太いベルトを掴んで全体重をかけて引っ張った。そしてブールが前のめりになると渾身の力でその足の甲を踏みつぶした。グエッと声を上げてブールが足から崩れるように倒れた。セルダンはその分厚い体を踏み台にして飛び上がると、次のブールの顔を蹴りつけた。
この巨大で頑強な怪物に拳は効かない。体の弱い部分を思いっきり蹴りつけて動きを止めるのが精一杯だ。
地面に降り立ったセルダンの肩をかすめるようにブールの棍棒がうなった。姿勢を崩したセルダンの背中をブールの巨大な拳が打った。セルダンは息をつまらせて地面に叩き付けられたが、横にゴロゴロと転がった。次の棍棒がその後を追うように地面を深くえぐる。さらにもう一本の棍棒がセルダンの頭上に振り下ろされようとした時、それを横から払うように鎖と鉄球の付いた巨大な棒がブールの棍棒をはねとばした。セルダンが見上げると、顔に幾つもの傷がついた大男が立っていた。
「トルソン」
カインザーの豪傑トルソン侯爵はブールの足を鉄球でなぎ払ってへし折ると、振り向いて笑った。
「王子、見事」
そのトルソンの前にいるブールの両腕がスパンと切り落とされて地面に落ちた。倒れるブールの後ろに二本の短い剣を持ったベロフ男爵が立っていた。
「素手でブールに戦い挑んだ者を初めて見ました」
セルダンは笑って立ち上がると、トルソンの背中を拳でドンとたたいた。
「助かった」
「どうぞ、先にお進みください」
セルダンは二人に手を振ると霧の中に走り出した。フオラが後を追う。しばらく走って行くと頭上に甲高い叫び声があがり、巨大な猛禽の群れが舞い降りた。
「コッコか」
セルダンは後ろから覆いかぶさってきたコッコの首に右腕をまわすと、鳥の左の翼に自分の左腕を突っ込んで羽ごと引き寄せた。そしてまるでコートを羽織るように自分と同じくらいの体重がある鳥を背負った。コッコの鋭い鍵爪がセルダンの背中をえぐったが、他の鳥はセルダンを直接襲う事が出来なくなった。
セルダンは背中から血を流しながら走り続けた。背中に背負ったコッコは他のコッコのくちばしの攻撃でズタズタになった。やがて肉片になった鳥の体を通して、くちばしがセルダンの背中に直接刺さるようになった。さすがにその痛みにセルダンが膝をついた時、ヒュッと音がして激しい鳴き声と共に、攻撃していたコッコが地面にドサリと転がった。
セルダンが目をあげると、バイルン子爵の逞しい体が見えた。その腕は巨大な弓を引き絞り、次々にコッコの首を射抜いている。
「王子、ここは私が」
「ありがとうバイルン」
セルダンはバイルンの顔を久しぶりに見たが、その顔色が少し悪いような気がした。
「バイルン、具合が悪いのか」
「いえ、何でもありません」
そう言ったバイルンが少しフラついた時、月型の刀がひらめいて小柄なロッティ子爵が現れた。
「王子、早く先にお進みください」
「ああ」
セルダンは背中に食い込んでいたコッコの爪を引き剥がし、担いでいた鳥の残骸を投げ捨てて走り出した。背中から足まで、血が流れて真っ赤になっている。
やがてあたりが暗くなる程霧が濃くなった。そしてその暗い空間に黄色い光が無数に宿った。セルダンが光に気が付いた瞬間、目の前をいくつもの黒い影が飛び交い、うなり声をあげて巨大な山猫が襲いかかって来た。セルダンはマーバルと呼ばれるその猫の鼻面を血だらけの拳で殴りつけて叫んだ。
「こい」
マーバルは姿勢を低くして、警戒のうなり声を上げた。セルダンは背中に人のぬくもりを感じた。振り向くと、赤いマントの男が背中合わせに立っていた。男は襲いかかってきた猫を、細身の剣を一閃させてをはねとばすと言った。
「昔、よくこうやって並んで訓練したっけ」
それに答えるようにもう一人の男が背中合わせに現れた。
「ベロフ師匠は厳しかったからな」
その額が広い男も頑丈な小手で猫を殴りつけた。セルダンは血まみれの顔で笑った。
「ああ、クライバー、カイト。あれは地獄だった」
二人の親友がマーバルの攻撃を防いでくれているうちに、セルダンはまた走り出した。
猫の騒ぐ音が消えると、足元で水がはねた。いつの間にかセルダンは浅い水の中を走っていた。やがて何かが足にからみ付いたかと思うと、七本足のイカの群れが水の中から湧き出た。
「出ると思ったよ、ソホス。仲間を食われた恨みかい」
セルダンはからみつくイカを引きはがすようにもがいた。イカの足が皮膚をむしり取るようにからみつく。しかしセルダンは船をも傾けるイカの群れを引きずりながら歩き出した。
ソホスの重みと疲労で、さすがにセルダンの足が止まった時、ジュッと音がしてソホスが体から落ちた。見ると三人の男がたいまつを持ってソホスを焼き払っていた。高齢の大柄な武人と思慮深げな老人、そして小太りの小柄な男がそこにいた。それは懐かしいランバン公爵、テューダ侯爵、アシュアン伯爵の三人だった。
アシュアンが嬉しそうに王子を迎えた。
「よくぞここまでたどり着きましたな。クラハーン神がお待ちですぞ」
「やあ、アシュアン久しぶり」
「本当にお久しぶりです。おそらくベッドの中で私の体も涙を流している事でしょう」
セルダンは驚いた。
「ここは夢の世界なのか」
「九諸侯それぞれの夢の中です」
「今、お前はどこにいるの」
「それを話したいのですが、どうしても口から出てきません。どうも禁じられているようです」
ランバンがうながした。
「さあ王子、先にお進みください」
カインザーの大臣達にうながされてセルダンは進んだ。フオラが近寄ってきた。
「大丈夫かい。君は夢の中にいるわけでは無いんだよ」
セルダンは蒼白な顔で微笑んだ。
「これほどの怪我をしたのは初めてだ」
フオラが心配そうにいなないた。
「痛いかい」
「痛みより力が抜けている。フラフラするんだ」
「出血がひどいのさ。普通ならば動けないと思うよ。僕の最初の主人のテイリン師ならば、治せると思うけど」
セルダンは茶色の髪の魔法使いを思い出した。
「テイリンか、ベリックが言っていたんだけど、彼が本当にアイシム神の魔法使いだと思うかい」
「わからない。不思議な人だった。でもとりあえず今は黒の神官の一人だよ」
「そうだな。今のところは敵だ」
セルダンはヨロヨロしながら歩き続けた。しばらく進むと、豪華な衣装のがっしりした体格の男が立っていた。左手に大柄な狼。右手に翼の生えた小鬼を従えている。
「クラハーン様ですか」
クラハーン神は賛嘆の目でセルダンを見た。
「よくぞここまで来た」
「九諸侯が助けてくれましたから」
聖なる指輪の神は妙な顔をした。
「それが不思議なのだ。私はソンタールの小型の獣を呼んだが、カインザーの九諸侯は呼んでいない」
セルダンはニヤリとした。
「でもみんな来てくれた」
「何か私にすら計り知れない繋がりがお前達にはあるようだな」
「なぜ僕の剣は消えたのですか」
クラハーン神の手の中にカンゼルの剣が現れた。
「攻めるだけでは戦いに勝つ事は出来ない。相手の攻撃を受け止める事、耐える事もまた必要だ」
セルダンは膝に手をついて肩で息をした。
「僕は一人だけではここまで来ることが出来なかった。試練は失敗ですか」
クラハーン神は剣の刃を持って目の高さにかかげた。
「それを知る事が大切なのだよ。皆がそなたを必要としているだけではなく、そなたも皆を必要としている事が。予期していない形であったがそなたは成し遂げた」
セルダンは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。僕には自分の事しか見えていなかった」
クラハーン神は剣の柄をセルダンに差し出した。
「そなたの戦いは私の戦いでもあった」
セルダンはフラつきながらも背をのばした。
「クラハーン様、シャンダイアにお戻りください。多くの人々があなたをお待ちしています」
「私もシャンダイアの人々の信頼を必要としている。だが私は守護者が目覚めなければ戻ることができない。しばらく待って欲しい」
クラハーン神はそこで困ったような顔をした。
「どうも私の能力がブレている。前回のエルネイア姫の時も余計な魔法を呼び出して危険な目に遭わせてしまった」
セルダンはハッとした。
「エルは大丈夫だったんですか」
「ああ、無事に戻ったろう。だがお前の場合は、私の能力のブレがお前を助けたようだな」
セルダンは剣を受け取ると、真っ直ぐにクラハーン神の目を見た。
「お待ちしています」
クラハーン神がセルダンに手を伸ばした。
「その傷を治してから帰りなさい。そのままで帰すと、私はエルネイア姫に嫌われてしまう」
セルダンは首を振った。
「いえ、よろしければこのままで。僕も学ぶ事が多かった。ここの記憶は消えても傷が僕に教えてくれるでしょう」
そこでセルダンは言葉を切り、しばらく迷ってから続けた。
「アシュアンが、これは夢の中の出来事だと言っていました。九諸侯の中で一人、バイルン子爵の顔色が悪かったのです。おそらく本体の体のほうも具合が悪いのでしょう。何かご存じありませんか」
クラハーン神は首を振った。
「いや、それを知るには私の力がまだ足りない」
「そうですか」
セルダンは深々と礼をすると、ゆっくりと霧の中に歩き出した。フオラが寄ってきた。
「今のうちに僕の背に乗って。そのままでは橋までもたない」
セルダンは背を低くしたフオラの背にうつぶせに倒れ込んだ。
「このままでいい。ゆっくり進んでくれれば落ちない」
フオラは体を二つ折りにした王子を乗せて、黙々と霧の中を進んだ。
やがて霧が晴れた。橋は驚くほど近くにあった。そしてそこには裾の短いスカートのエルネイア姫が立っていた。
「セルダン」
馬の背で気を失っているセルダンを見て、エルネイアが悲鳴をあげて駆け寄った。気が付いたセルダンは顔を逆さにしたまま微笑んだ。
「エル、さわっちゃ駄目だよ。汚れてしまう」
エルネイア姫はかまわず愛する人を馬の背から引きずり降ろして、しっかりと抱きしめた。
(第十四章に続く)
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