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シャンダイア物語

第五部 守りの平野
第十四章 トルマリム壊滅

福田弘生

 トルマリムはセントーン王国の首都エルセントの北方、ミルバ川の下流にある都市である。さらに北にはソーカルスがある。
 川と海に挟まれた肥沃な大地、東の将の侵攻から遠く離れた平和な都市は、セントーンの文化の中心として栄えていた。セントーンの南方ではゼリドル王子と東の将の激しい戦いが続き、北ではソーカルスがマコーキンの手に落ちたという情報がもたらされてはいたが、平和に慣れたトルマリムの人々はその脅威を自らの危険として感じる事ができないでいた。
 その日もいつもと変わらぬ夕暮れがやってきた。夕焼けの茜色と夜の紫色が溶けるような空に、やけに黄色い月が昇った。
 港で働く人々が仕事を終え、酒場に向かおうとしたその時、桟橋で誰かが叫んだ。港の人々はその声に驚いて沖合を見た。すると水の中に人が立っていた。やがて人々は、その人影が巨大である事に気がついた。それがトルマリムの悲劇の始まりであり、都市の運命の終わりだった。
 
 黒い怪物は海をいだくように海中を走った。その移動によって引き起こされた波で港の小舟が次々に転覆した。七本の腕を持つ闇の獣は岸に着くと、巨大な足で港の敷石を砕きながら上陸した。そして荒々しく咆吼すると、そのまま街の中に走り込んだ。怪物が触れた建物は炭のように黒くなって砕け、粉をふりまいて倒壊した。まるで黒い煙を蹴立てるように怪物は町中を暴れ回った。
 
 黒い冠の魔法使いゼリッシュは、一足遅れて桟橋に小舟をつけた。サルパート人らしい小柄な体躯、王家の整った顔立ち。黒い神官服を着た魔法使いは滅び行く都市の姿を不思議な物を見るかのように見つめた。
(俺は何をしているのだろう。かつて自分はあの怪物に意志と心を奪われたと思っていた。しかし気がつくとその怪物を自在に操っている自分がいた。バステラ神の神官から人々を守ろうと思っていた自分が、気がつくと神官の一人となって人々を殺している)
 悲鳴の中に呼びかう男達の大声が聞こえる。気がつくと都市の守備兵が目の前の街路を右往左往していた。
(無駄だ。人の手に負える怪物では無い)
 数人の兵士が駆け寄って来てゼリッシュに剣を向けた。
「貴様、何者だ。あやしい奴め」
 ゼリッシュが黙って兵士に向けて手を振ると、兵士は真っ黒になって崩れた。逃げようとした兵達もまたたく間に炭になった。魔法使いは悲しげにつぶやいた。
「安らかに眠るがいい。それが夜の神の贈り物だ」
 やがてトルマリムの半分ほどが黒い瓦礫と化し、人々は巣を壊された蟻のように都市から溢れ出て、川沿いに逃げ散った。都市のあちこちから火の手が上がり、またたく間に燃え広がった。ゼリッシュは火の粉が舞い上がる先にある空を見上げた、月があぶられたように赤く染まっている。その赤い月めがけて真っ黒い烏が飛び立った。

 ・・・・・・・・・・

 その光景を、はるか彼方から大鬼ザークが眺めていた。ソンタール帝国の首都グラン・エルバ・ソンタールの西にある犯罪者の収容所の中央につくられた巨大な建物の中だった。円形の天井の無い巨大な囲いの中に大鬼は座り込んで羊の肉をほおばっていた。
 ザークは囲いの隅にある小さな革製の椅子に座ってお茶を飲みながら本を読んでいる魔法使いに悪態をついた。
「ガザヴォック、なぜあんな奴を野放しにする」
 黒い指輪の魔法使いは静かな声で答えた。
「バステラ神のご意志だから」
 ザークは老魔法使いに目を向けた。
「俺はバステラ神の最高位の神官である貴様が、バステラ神の意志を具現化する魔法使いかと思っていたぞ。残りの魔法使いはお前の手下で、おまえの命令で動くと」
「もちろんだ。わしがバステラ神の意志を具現化する魔法使いである事は変わらん。だが、それが一人でなければならない理由がどこにある」
 ザークはまじまじとガザヴォックを見つめた。
「貴様、身替わりをつくったな。やがて現れるアイシム神の魔法使いと対になるように」
 ガザヴォックは手元の書物に何かを書き込んで目を上げた。
「両者の力は互角。戦えば双方が消えよう」
 ザークは一呼吸置いて吠えるように笑い出した。
「残念だったなガザヴォック。黒い冠の魔法使いは、アイシム神の魔法使いではなく、聖なるカンゼルの剣に倒される運命にあるのだ。アイシム神の魔法使いは生き残って、貴様を滅ぼす」
 ガザヴォックは横にある机に、本とお茶のカップを置くと手を後ろに組んで立ち上がった。
「知っておる。しかしかつてリナレヌナで、そなたとわしが予見した時はそうでは無かった。聖なる剣はそれ程強大にならず、冠の魔法使いと出会う事も無いはずだった。予見が狂いはじめておる」
 ザークが吐き捨てるように言った。
「未来は変わるもんだろう」
 ガザヴォックも笑みを浮かべた。
「わしも変えてみせよう」
 舌打ちをしたザークが南東に目を向けた。
「やれやれ。ライケンがようやくセントーンに着いたぞ」
「千里眼とは便利な目だな。これでセントーンはおしまいだ」
「ああ、だが。ライケンの前には困難が待ちかまえているぞ」
 ガザヴォックはつまらなそうに肩をすくめた。
「それはそうだ。キルティアとレリーバがそう易々とライケンの進入を許すはずもない」
 ザークがまた笑った。
「はーっはっはっはっ。他にもいるぞ。シャンダイアを甘く見るな。ライケンの上陸地に魔法が見えるわい」
 ガザヴォックは険しい顔で鬼を見上げた。
「ばかな。シャンダイアの魔法に関わる守護者と魔術師マルヴェスターはすべて北のシムラーにいるはず。唯一の例外は女魔術師のミリアだが、これはマコーキンと共にソーカルスにいる」
「いるんだよ。他にもはっはっはっ」
 ガザヴォックが気がついた。
「ザラッカの魂が言っておったな。シュシュシュ・フストが現れたと。だが、今の彼に何ができる」
「さあな。だがお前より歳ふりた生き物を馬鹿にせんほうがいいぞ」
 鬼の高笑いはいつまでも続いた。

 ・・・・・・・・・・

 カインザーのクライバー男爵の息子、マスター・アントことアントン・クライバーは、ダワの町の南方にある岬から沖を眺めていた。沖合には水平線を埋め尽くす程の無数の灯が輝いている。
 アントンの横には魔法使いトーム・ザンプタ、吟遊詩人サシ・カシュウ、そしてバルトール人のフスツと四人の部下が立っていた。その後ろにセントーンのレンゼン王から派遣された部隊の指揮官達が並んでいる。アントンは隣にいる小柄なザンプタに話しかけた。
「来ましたね。海から災いが」
「ああ。しかしこれは人為的な災いだ。わしが感じた水の災いはまた別にある」
「それは何ですか」
「わからん。しかしまずライケンをできる限りくい止めねばならんだろうな。夜が明ければ上陸して来る」
「ええ、まずその上陸を阻止する努力をしましょう」
 ザンプタは自分と同じくらいの背丈の少年の肩をポンとたたいた。
「怖いか」
 アントンは震えながらも首を振った。
「いいえ、これでようやくベリック王や父のレドと同じ戦場に立てます」
「そうか。おまえもカインザーの子だったな」
 二人の後ろでサシ・カシュウが小声で何かを口ずさんだ。やがてその声は高くなり、美しい歌になり、その場にいた人々の心に深く染みいった。それは悲しい歌でも無く、かと言って勇ましい歌でも無い。何か心がおだやかになる歌だった。
 アントンは感謝の気持ちで長身の吟遊詩人を見上げた。サシ・カシュウは微笑み返すと、声に力を込めて歌い上げた。
 ダワの戦いの前夜がこうして過ぎた。

 (第十五章に続く

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