陽が高く昇ると、その谷からは影が消えた。
夏の盛りにはさすがのランスタイン大山脈も高峰を残して雪が消える。清涼な大気を通して差し込む日差しは強い。急な斜面には陽に照らされた白い岩肌が剥き出して、それがまるで流れるように谷に落ち込んでいる。そしてその表面には低い木々が白茶けた土と交互に張り付いたように点在していた。いくつもの谷を巡ってきた風はここで吹き上がり、上空では鳥が風に乗って楽しそうに揺れている。
しかしルフーのリーダーであるレイユルーは空を見上げる事は無かった。狼に空はいらない、大地さえあればそれでいいからだ。気力を奪う耐え難い日差しと、毛皮を重く湿らせる雨と雪を気まぐれに送りつける空は嫌いだった。
誇り高きユルーという名を持つ狼は、灰色の毛を強い風にそよがせながら考えた。
(ソンタール第六の将パールには注意しなければならない。戦いの最中にたった二人の部下だけを引き連れてこの谷に来るなどとは、並の貴族では考えもしない事だろう)
レイユルーは、谷の入り口にパール達を待たせてきている。だが、もしかしたらそれはうかつだったかもしれないと思い始めていた。ドラティの子があのあたりを遊び場にしていたからだ。南の将の要塞の近くで孵化した竜の子は、今ではすっかり大きくなり、若々しい羽で谷を飛び回っている。
坂になった獣道を登っていくと、やがて段状になった狭い畑を耕しているテイリンの姿が見えた。若い魔法使いは黙々と畑の手入れをしている。その姿を見ただけでは誰も魔法使いとは思わないだろう。しかしその周りでせっせと作業を手伝っている羽の生えた小鬼の姿は異形だった。
(いったい何者の意図であの鬼達は変異し続けているのだろう。テイリンはミルトラの水をゾックの牝にあたえ、そして戻ってきた牡達は交尾を行った。まさか羽の生えた子供が生まれてきはすまいな)
レイユルーはそう考えてゾッとした。
神経質な小鬼達が、狼の接近に気づいてざわめいた。ルフーとゾックはテイリンに従っているが、まだうちとけあっているとは言えない。レイユルーは畑の穀物の臭いにちょっと嫌そうな仕草をした後、顔をあげた魔法使いにうなり声で伝えた。
「客が来ています」
テイリンは心から驚いたようだった。
「まさか、この山奥にか」
「ソンタールのパール・デルボーンです」
若い魔法使いはあわてた。
「噂に聞く第六の将がなぜここに」
レイユルーはテイリンを落ち着けるように忠告した。
「テイリン様、一つだけ忠告があります。パールに誘われても慎重に対応したほうがいい、もし月光の要塞に近づくような話になったら断るべきでしょう」
すでにレイユルーはテイリンに、月光の要塞の泉とその底にガザヴォックが置いたと思われる金色の魚の話を説明してある。時を止められた魚はガザヴォックの罠かもしれず、もしテイリンがアイシム神の魔法使いとなる運命にあれば、その魚に近づいて魚の魔法が解けた時にガザヴォックの攻撃を受ける可能性があった。
しかし、テイリンは自分がアイシム神に関わりがある存在だとは思っていないようだった。自分はただのゾックの保護官であり、成り行きで魔法使いになったにすぎない。しかもその魔法の力を見いだしたのは黒の神官の総帥ガザヴォックであり、むしろ自分が仕えるべきは白いアイシム神よりは黒いバステラ神だというのが若い魔法使いの意見である。
レイユルーはテイリンと共に谷の入り口に急いだ。
パールは二人の仲間と共に道ばたの岩に腰掛けて待っていた。あわてて駆けつけたテイリンはかしこまって挨拶した。
「これはパール様、初めまして」
パールは二人の部下と共に立ち上がると、人なつっこそうな顔で感心したように応じた。
「やあテイリン、会えて嬉しい。偉いもんだなあ、お前の先祖はこんな所でゾックを育ててきたのか」
「はいソンタール帝国のため、微力ながら努力して参りました」
パールはテイリンに近づくと、肩を抱くようにして斜面に座りこんだ。それを見たパールの部下のペイジとヒースも二人に向かい合うように地面に座った。
いかにも筋肉質で力がありそうな体格をしたペイジは、背負っていた袋からゴソゴソと食べ物を取り出して隣のヒースに渡し、パールとテイリンにも一つずつ放り投げた。テイリンは驚いて、受け取った食べ物を見つめた。
片手で器用に受け取ったパールはテイリンの肩をポンとたたいた。
「まあ食え。けっこう贅沢な材料を使っているからそこそこうまいぞ」
「しかし」
ペイジがモゴモゴしながら説明した。
「一応俺たちゃ戦闘中だからな。飯なんかいつ食えるかわからないから、座った時に食うのさ」
テイリンはきょとんとした。パールがテイリンに尋ねた。
「おかしいか」
テイリンはどう答えてよいか困った。
「ええ。私は西、北、南、東の四将に会った事があります。どの将もそれぞれ軍人としてとても強い個性を持っていましたが、同時に多くの者を治める行政者としての一面もありました。それなりに威厳があり、あのマコーキン将軍ですら、兵と一緒に座る事は無かった」
パールは自分の懐から果物を取り出してカクリとかじった。
「ああ、そうだ。ソンタールの五将は王のようなものだからな。軍勢を抱えるためにはそれなりに税も食料も集めなきゃいかん。本国との取引も必要なので政治家である必要もある。ユマールの将ライケンなどはまるで皇帝のような暮らしをしていると聞くぞ」
「貴族の方にもお会いした事がありますが、こちらは軍人と言うよりは政治家そのものでした」
「その通り。お前の言いたい事はわかるさ、俺は将のようでも貴族のようでも無いと言いたいんだろう」
パールのもう一人の部下で、髪を短く切りつめた男前のヒースがニヤニヤしながら言った。
「デルボーン男爵が言ってましたよ、お前達はまるで傭兵だって」
パールがテイリンにウインクした。
「俺達はそんな部隊だ。指揮官達は皆貴族の次男、三男。親元の屋敷にいても邪魔にされるし、独立しても財産の分け前は少ない。さりとて商才も無いし手に職も無い」
「しかしパール様はデルボーン男爵の跡取りとうかがった記憶があります」
パールはうなずいた。
「もちろん父は俺が軍に入ることを嫌がったけどね。俺が病み上がりだった事も理由の一つだと思う」
「お体が弱いのですか」
パールは首を振った。
「全然。しかしそう言われているんだ。確かに俺は二十歳くらいまでの記憶が無い。大病をして記憶を無くしたと父は言っている」
パールは自分の頬をたたいた。
「時々、自分の顔ですら果たしてこうだったのかと思う時がある。どうもなじめないんだ。まあいい、とにかく俺は軍に入り、仲間を集め、小さな戦いで功績をおさめた。ライケン以外の四人の将の所にも行ったが皆よくしてくれた。たいした家柄でも無いデルボーン家の息子が優遇される理由がわからないが、俺も仲間達も頑張ったよ」
「なぜ軍人に惹かれたのですか」
「病気が治っていらいずっと、皇帝のために何か出来ないかと、そればかりを思ってきた。そういう性格に生まれついていたらしい。軍人になったのは他に出来る事が無かったからさ」
「その想いは私と同じです」
「じゃあ、俺達と一緒に来てくれ。本隊はランスタイン山脈からリナレヌナに降りる街道の上のほうで立ち往生している。下にはロッティというカインザーの貴族が待ちかまえているんだ」
テイリンは眉をひそめた。
「それは強敵です。私は直接会った事はありませんが、前線にいるカインザーの九諸侯の中では最も戦略に秀でている」
「ああ、峠を下りられない。俺は一万の兵で月光の要塞に入ろうと思う。何とかロッティを引きつけてソンタール兵を峠からおろし、リナレヌナを制圧する」
「総司令官自らが囮になるんですか」
「もちろんだ」
テイリンはこの貴族に好感を持った。
「しかしガザヴォック様のお許しが無いと、私たち魔法使いは動けません」
パールは驚いた顔をした。
「そうだったのか」
「ソンタールの軍人であるパール様がご存じないはずはないでしょう」
「まあな。しかしお前はマコーキンが必要としていると政府に要請して、ガザヴォックも許可していたはず。戦線に戻るのは問題あるまい」
「ええ、それは聞いています。ただマコーキン様の元に参陣する明確な期日を指定されてはいません」
「それはちょうどいい。ちょっと俺を手伝ってからマコーキンの所に行けばいい。セントーンは今、キルティアが大暴れしている。ライケンももう着いたろう。マコーキンは頭のいい男だからしばらくは戦況を見て分析に時間をかけているはずだ」
しかしテイリンは頷かなかった。パールは立ち上がった。
「予想していたのと違うな。ゾックの活躍の場が欲しかったんだろう。まあいいや、月光の要塞で待ってるぜ」
パールはそう言って背を向けると二、三歩踏み出して立ち止まった。そして思い出したように振り返ると、背中の鞄から小さな包みを取り出してテイリンに放り投げた。
「さっき、この上を飛び回っていた竜に贈り物をやろう。魔法学校の連中が俺の乗る獣の餌にくれたんだが、獣に異様にスタミナがつく」
そう言って手を振ると、パールは二人の仲間と山を下って行った。テイリンは唇を噛みしめてパールを見送った。
「知られたか」
レイユルーがボソリと答えた。
「あの小僧をいつまでも隠しておくのは無理でしょう」
「面倒な事になったかもしれないな」
レイユルーは体を震わせた。テイリンには狼が笑っているのがわかった。
「おかしいか」
「翼の生えた小鬼と、保護してくれる巨獣を亡くした狼、それに竜の子供。いつの間にかこんな者達を引き連れる事になったあなたは何者ですか」
テイリンには答えられなかった。
「これからどうします」
「月光の要塞に行ってみようと思う」
狼はグーウウウとうなった。
「パールに何を感じました」
「表面の快活さや、豪快さとは裏腹の、切ないような脆さ」
「私も同様です。自分を失っているような、この世に何の未練も無いような印象を受けました。パールと共に戦うのはやめたほうがいいと思います。彼にかまわずに真っ直ぐマコーキン将軍の元に行くべきでしょう」
テイリンは複雑な表情で狼を見た。レイユルーは言った。
「噂が蘇りますよ。ソンタールの将の疫病神という」
テイリンは笑った。
「そうだった、その噂をいつか消さなければならないと思っていた。今がその時かもしれないぞ。村長に話をしてくる」
テイリンはそう言うと、ゾックの繁殖地に隣接した村に向かった。
(第十六章に続く)
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