明け方、海面には白い霧がただよっていた。陸の上のダワの街の中では兵士達の行進の音と市民達の避難の音が騒々しく響いている。ホックノック族の姿に戻ったトーム・ザンプタは海面に顔を出して揺れる波を見つめていたが、やがてポチャッと音を立てて海中深く潜って行った。グリム虫の細かい死骸で赤い色に染まり始めた暗い海中からは七本足のイカ、ソホスの姿がすっかり消えている。
やがて海中にうっすらと白い巨大な影が見えた。ザンプタが泳ぎ寄ると、海竜ゼネスタの巨大な姿が浮かび上がった。そしてその頭のあたりにホックノック族の女王ミッチ・ピッチの姿があった。ザンプタは辛そうな顔で泳ぎ寄った。
「姉上」
ミッチ・ピッチの羽が暗い海中で青く輝いた。
「何と恐ろしい海だこと。これ程たくさんの赤い死を見るのは初めてです」
ザンプタは姉に状況を説明した。
「黒い巻物の魔法使いレリーバがこの事態を引き起こしました。グリム虫はこの湾に流れ込むトラム川全域に広がっています。私はグリム虫の災いを終わらせるために、これから川を遡るつもりです」
ゼネスタの不安そうな意識がザンプタの心に触れた。ミッチ・ピッチが諭すように言った。
「なぜそんな事をする弟よ。我らは海の精霊、もはやそなたの地上での役割は終わったのではないか。トンポ・ダ・ガンダに帰ろう」
ザンプタは思わず姉に近づいた。
「帰りたい。しかし、すでに私の力はホックノックの民に託しました。トンポ・ダ・ガンダに戻っても私はただのホックノックの男です。しかし地上の世界には私に出来ることがあります。私は空を見ました、花の美しさも知りました、その世界を救わなければなりません。トラム川を遡ります、そしてグリム虫を滅ぼします」
ミッチ・ピッチの羽が見えなくなる程に色を失った。
「命と引き替えになりますよ」
ザンプタは無言で姉を見つめた。ミッチピッチも無言で手を上げると、ザンプタの腕に触れた。ザンプタはふりほどくように身を離した。
「姉上、おさらばです」
そう言い残すと、ザンプタはミッチ・ピッチに背を向けて泳ぎ出した。そして湾の海中を縫うように泳ぎ渡ると、湾の南側に流れ込むトラム川に入った。最初に海に生まれた生き物の泳ぎは速かった、腕を体にぴったりと貼り付けると、体を上下にくねらせ、足ひれを使って魚のように赤いグリムの毒の中を上流に向かって泳ぎ続けた。
・・・・・・・・・・
ベリック王の腹心フスツの部下、ビンネ、クラウロ、バヤン、トリロの四人は夜のうちに東の将の別働隊の陣営まで走り、兵達の間にまぎれ込んだ。ちょうど陣のあちこちで朝餉の支度が始まっている。
平凡な顔立ちのクラウロが炊事場の鍋の横にいる男に声をかけた。
「どうだい様子は」
擦り切れた茶色の服を着た男は、うんざりしたような顔で答えた。
「どうもこうも、そろそろ決着をつけて欲しいぜ。さっさと戦闘しないと、ライケンに合流するために後ろからやって来る軍との間に挟まれちまう」
「そいつがなあ、どうもその軍隊が思ったより早く近づいているという噂があるんだ」
「なんだと」
「いやここだけの話だが、北からの避難民がそう言っているらしい」
鍋当番の男はそわそわしだした。顔からは血の気が引いている。クラウロは手にしていたお椀に鍋の中身を少しすくった。
「おう、もらってくぜ」
クラウロはそう言ってその場を離れた。クラウロの後ろにいた料理が得意なトリロは、鍋をちょっとのぞいて臭いをかぐと、懐から数枚の葉を取り出して鍋に放り込んだ。鍋当番の男が気がついて不思議そうな顔をした。
「何をしたんだ」
「臭いをかいでみろ」
男は鍋の中の煮物の臭いをかいで驚いたように顔を上げた。
「おっ、肉の臭みが消えたぞ」
「だろ」
トリロは肩をすくめて鍋番の男に背を向けた。クラウロがたずねた。
「何で余計な事をしたんだ」
「せっかくの食べ物だ、うまく食っても罰はあたらんだろう」
クラウロは椀の中の煮物の臭いをかいだ。
「それなら俺が鍋当番に声をかける前にやってくれ」
その頃、ビンネとバヤンも他の場所で噂を流し、その噂は次第に東の将の別働隊の中に広がっていった。
バルトール王ベリックは、おびえるバオマ男爵を引きずるようにしてライケンの陣営に馬を進めた。ユマール軍は整然とダワの北の野に整列している。むっつりとした顔をしてベリックの後ろを進んでいたフスツがその光景を眺めて言った。
「ほぼ全軍ですな」
「ああ、一晩で全軍に起動を命じるとはさすがの統率力だ」
少年王は二千の歩兵を引き連れて堂々とその列の前を進んだ。バオマ男爵はみるからに震えていた。
「ベリック王様、大丈夫でしょうか。このまま殺されちまうんじゃないですか」
ベリックは安心させるように笑った。
「いや、ライケンは現実主義者だ。東の将の別働隊との決着がつくまでは僕達が必要だよ。むしろ問題は戦闘が終わった後、どうやって僕達が戦場から離脱するかのほうさ」
「それまで生きていられればいいんですがねえ」
大軍の中央にライケンは美しい陣幕を張って陣取っていた。ベリックとバオマ男爵、そしてフスツが案内されると大きな戦机を前に十人ほどの幹部を従えたライケンとミハエル侯爵が待っていた。
「よく来たな」
「全軍で出動するのですね」
ライケンはうなずいた。
「そうだ。陸上に四万、海上にはヤーン伯爵の一万の海軍だ。キルティアの軍を蹴散らして、エルセントに進軍する。お前のほうも全軍だな」
「ええ、わずか二千人ですがセントーンの兵は実戦を経験しています」
「なる程、確かにユマールの兵は経験が足りない。頼りにするぞ。ま、座れ」
ベリックは机を挟んでライケンの正面に座った。そしてライケンの左右に並んだユマール軍の幹部達を観察した。皆いかにも貴族といった品の良さがただよっている。
(戦争が出来るんだろうか)
ライケンが探るような目で言った。
「疑っているなベリック。戦えるのかと」
「失礼を承知で言わせてもらうと、以前にこんな状況に会った事があるんです。サルパートのマキア王が北の将ライバーと戦った時、マキア王は経験の少ない兵を率いて大苦戦しました」
「だが素人同然の兵を率いてマキアは勝ったぞ。ライバーは確かに年老いていたが戦い方は知っていた。ここでのキルティア軍と我が軍の兵の差は、マキアとライバーの軍程は大きく無いはずだ」
「それでどうするんですか。東の将の別働隊は十万、こちらの倍は兵がいますよ」
「いや、三倍だ」
「えっ」
「思ったよりレリーバの毒がきいた。兵の三分の一は腹をこわしてまともに動けん」
「でもズラッと並んでましたよ」
「今日は並んでいるだけだ。戦えるのは約二万五千といったところだ」
ベリックはゾッとした。しかしライケンは心配していないようだった。
「安心しろ、キルティアの軍の後ろには、キルティア軍の本体から離脱して私の支配下に入ろうとしている十万の軍が接近している」
「でもその兵の到着はまだ一週間は先でしょう」
ライケンは人差し指を振った。
「誰が一日でこの戦いに決着をつけると言ったかね」
ベリックはちょっと驚いた。てっきり総攻撃をかけると思っていたのだ。
「十万の兵が来るまで待つのですか」
「誰が待つと言った」
次の瞬間、ベリックはどこからともなく短剣を取り出して、ライケンの目の前の机にトンと投げつけた。短剣は机に深々と突き刺さった。
「相変わらずあなたと話をするとイライラするな。ならば僕は自分で立てた作戦でいきます。ダワから西に進んで、東の将の別働隊の側面を攻撃します。今、バルトールの仲間達が噂を流している最中です」
「噂だと」
「ええ、ユマールの将に合流しようとしている軍が予定より早く進行してきたという噂です」
ミハエル侯爵が怒りの表情を見せた。
「ライケン様に対して何という態度だ」
ベリックはキッとなって怒鳴った。
「控えろ、ミハエル。敵とは言え、僕はバルトールの王だぞ」
ライケンが声をあげて大笑いした。
「そうだベリック、その作戦で頼む。敵を混乱させて欲しい、そうすれば内部に造反者が出てくる」
ベリックは意外そうな顔をして尋ねた。
「今回の相手はキルティアの子飼いの兵達でしょう」
「ここに並んでいる貴族達を甘く見るなよ。戦場では頼りないかもしれんが、籠絡に関しては超一流だぞ」
ベリックはちょっと不気味になった。ライケンは机に刺さった短剣を引き抜いた。
「これはバザの短剣か」
「いいえ、バザの短剣はここにあります」
ベリックは懐から短剣を取り出した。
「この短剣は人の心に反応して素早く動く。ライケン、気が短い僕が怒ればこれはあなたの胸に刺さりますよ」
ライケンは首を振った。
「いいや、その短剣は、弱き心を励ますためのものだろう。お前はバルトールの民のためにそれを使うはずだ」
ベリックは微笑んだ。
「ちょっと違う。シャンダイアの民のためです」
ベリックは立ち上がって出発しようとライケンに背を向けたが、思い出したように振り返った。
「将ライケン、サルパートの王に会った事はありますか」
ライケンは意外な問いかけに驚いた。
「聖王マキアか、いや、会ったことなど無い」
「この戦いが終わって、どちらの陣営が勝つにせよ二人が生き残ったら、一度会ってみるといいですよ。あなたと話が合いそうだ」
「どういう意味だ」
「いや、二人が話をしているのを横で聞いていたいなあと思って。たぶん面白い会話になりそうだから」
ベリックは大笑いしながらライケンの陣を出た。
ベリックとバオマ男爵の兵二千は、東の将の軍を大きく迂回して西に向かって急いだ。平野というのは実は障害物に満ちている。バルトールの寒い地域では木々の数も少なく、大地は荒れた広大さを感じる事が出来る。乾いたカインザーもまた同じ。しかし肥沃なセントーンではどこに行っても原生林が立ちはだかっている。人の足が踏み入れられた事の無い森は、まるで壁のように人の侵入を阻んでいた。
ベリック達は森の中に流れる川の、狭い河原沿いに注意深く兵を進ませると東の将の軍の側面の林の中に入った。そこにフスツの四人の部下が待っていた。
ベリックが声をかけた。
「ビンネ、敵はどんな様子だ」
「ご指示通り噂を広めましたので、少し動揺してきました」
フスツが東の将の軍がいる方角の空を眺めた。
「不思議なものでカインザー人と長く付き合っていると、音や気配で軍勢の勢いというものがわかってきますね」
ベリックもうなずいた。
「本当だね。あちこちでバラバラにざわめきが聞こえる。勢いがある軍隊は全体からワッといった感じで騒音があがっているはず」
フスツが振り向いて続けた。
「実質的な敵はユマール軍の前面に並んでいる二万人程でしょう。私達は残りの八万を適当に攪乱していれば、やがて敵は内部から崩れる」
「ライケンの狙いがそれだ。そして僕達にはもう一つ使命がある。ここから南には戦闘を拡大させてはいけない。トラム川沿いに脱出しているダワ市民に危険が及ばないようにしなければ」
バオマ男爵がおおきくうなずいた。ベリックはバオマ男爵に顔を向けた。
「バオマ男爵、ライケンの軍が戦闘を始めたらこっちも様子を見て攻撃にかかります」
バオマ男爵は、青い顔をしながらも兵達に命令を知らせに走った。
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ダワの町に残ったブライスは、アントンと一緒に市民の脱出の指揮をとっていた。ガタガタと荷馬車が列をなして進んでゆく。ブライスはトーム・ザンプタを信じていたが、川の浄化がいつ頃になるのかは全くわからなかった。トラム川の南はすでに毒に汚染されているので、逃げるのならば北になるが、そこは今まさに東の将とユマールの将の戦いが行われようとしている場所だった。そのためトラム川に沿ってまず上流に移動し、ルボン平原にあるいくつかの泉の近くに野営する予定になっている。
ブライスは頭にカスハの冠を載せた。もうライケンの兵は町の中に残っていないのでかまわないと思ったのだ。そして市民達に向かって父譲りの大声を張り上げた。
「いいかゆっくりと進め、急ぐ事は無い。子供に怪我をさせるな、火を出すな、建物を壊すな。戻ってくるんだからな」
うつむいて歩いていた人々はその声に頭をあげて歩き出した。気が付くとブライスの隣に乗馬のスゥエルトが寄って来て、大きな顔を近づけて女性の声でささやいた。
(気が付いたかしらブライス。あなたの導き手の力に人々を励ます力も加わってきた事に)
ブライスはうさんくさげに芦毛の馬の顔をにらんだ。
「エルディ神、何でそんな所から話してるんですか」
(ミルトラの力が弱まりすぎて来る事ができないの。でもクラハーンが戻ってくれたおかげで聖なる宝の力が融合してきたわ)
ブライスは重要な事を告げられていると気が付いた。
「それはもしかしたら聖宝がいつか一つになると言う事ですか」
遠くから戦闘の音が聞こえてきた。ライケンの軍が攻撃を開始したのだ。ブライスはスウェルトの顔をしばらく見つめていた。しかし馬は間の抜けた顔で見返すと、ブライスの顔をペロリと舐めた。
「やれやれザイマンに帰ったか。そのうち聞いてみよう」
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東の将の軍の目的はユマール軍の北上阻止だったため、ユマール軍の先頭を包むように陣を広げて襲いかかった。これに対しユマール軍は魚鱗に軍を重ねて、東の将の軍の前列の部隊を砕くように突撃した。しかし東の将の軍の最前線に布陣していた精鋭部隊はひるまなかった。戦闘はしばらく五分五分のように見えたが、そのうち経験にまさる東の将の軍が圧しはじめた。
ユマール軍の後方の高台から戦況を眺めていたライケンは、横にいるミハエル侯爵に尋ねた。
「勝っているか」
「どうも敵の勢いのほうが強いようで」
「ベリックはまだか」
「いいえ。逃げ出したのでは」
「いや、ダワの市民を人質にしてあるんだ。ベリックは戦うよ」
ミハエル侯爵は怒りの表情を顔に浮かべた。
「いったい黒い巻物の魔法使いはどこに行ったのでしょう。大切な時に役に立たない」
ライケンは落ち着けと手を振った。
「あいつの目的はソンタールの勝利では無い、最大の敵である剣の守護者と戦う事だ。勝手に戦って勝手に滅びればいい。戦力として期待するな」
ユマール軍は前進を阻まれて防戦一方になったが、層を薄くした東の将の軍はしばらくすると攻撃の手が鈍ってきた。やがて東の将の軍の右腹背に騒音があがった。ベリックのセントーン軍が攻撃を開始したのだ。東の将の軍の右翼がこれで崩れた。ライケンが叫んだ
「今だ、全軍を正面の敵に」
ユマール軍の総攻撃で東の将の軍の中央部も崩れた。
ベリックは戦いながら、東の将の軍の最前線の裏側まで入り込んでいた。
「フスツ、敵の戦闘に参加している兵の数が少ない」
「はい。半分以上が動いていません」
ユマール軍の攻撃が激しくなり、東の将の軍が後退しはじめたのを確認すると、ベリックはフスツと目で合図し合って馬を止めた。
「よし、ここまでだ。エルセントに撤退する」
横に並んでいたバオマ男爵が泣きそうな顔をしながらも勇気を振り絞って言った。
「私はダワに戻ります。市民を守らなければ」
「そうだね、気をつけて。ブライスもいるので、あなたは無理はしないで」
「王様もご無事で」
ベリックはフスツと四人の部下を引き連れて、崩壊した東の将の軍と、動かなかった軍の間に出来た隙間を縫って北に向かって駆け出した。その途中、ベリックは馬上で一打度だけ振り返った。
(ライケン、次はエルセントで会おう)
ライケンは勝利を確信するとミハエル侯爵にどなった。
「バルトール王を逃がすな」
ミハエル侯爵は兵を引き連れて戦場に駆け込んで行った。そして部下に尋ねた。
「セントーンの軍はどうした」
「戦場に止まっています」
ミハエル侯爵が近づいていくと、バオマ男爵がセントーンの紫色の旗をかかげて立っていた。
「バルトール王はどうした」
「エルセントに向かわれました」
「そなたはなぜここに止まった」
「ダワの市民を救うため」
ミハエル侯爵はやれやれと頭を振った。
「お前さん達をいじめても、こっちが余計な怪我をするだけのようだな。しばらく待っておれ、ライケン様の指示を仰ぐ」
やがてライケンの言葉を伝える伝令が届いた。ミハエル侯爵は指令を聞いてバオマ男爵に伝えた。
「ベリック王は約束を守った。ライケン様はダワの市民に手は出さない。お前達も行け」
バオマ男爵はミハエル侯爵に会釈をすると、ユマール軍から離れた。
ユマール軍はそのまま北に向かって進撃を開始した。海上ではヤーン伯爵の率いる艦隊がやはり北上を始めた。海面には一斉にソホスの白い波が立った。
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巨大なセントーン平野を横断するトラム川を六日間泳ぎ続けたザンプタは、トラム川が分岐する地点にあるサガヤの町がグリムの毒の源である事を知った。ザンプタは陸に上がると、焼き払われた都市と市民の屍が散乱している街中の惨状を見て歩いた。
(なる程、東の将キルティアというのは狂っている。この都市を破壊したのは黒の神官だろうが、それを平然と眺めていられる指揮官があってはならないだろう)
やがてザンプタは東の将の要塞の方角からトラム川に流れ込む水路を見付けた。そこがグリムの毒の源だった。幸いその水路はすでに干上がっている。ザンプタはサガヤの街を抜け、グリムの毒が流れ込んだ地点の上流のトラム川の清涼な水に入って一息ついた。
(ありがたい。最後に美しい水に出会えた)
ザンプタはしばらく楽しむように泳ぎ回ると、やがて仰向けになって水面に浮いた。青い空が見え、白い鳥が飛んでいる。
(伝令鳥だろうか、一度あの姿になってみたかったなあ)
やがてザンプタの体のまわりが白くぼやけた。
(姉上、あなたの元に帰ります。私は海に戻ります)
そして翼の神の弟子トーム・ザンプタであり、海の精霊シュシュシュ・フストの体は白い塩となって水に溶けた。トラム川の水は海水となり、海水はグリム虫の息の根を止めながら下流に流れ、その後を清涼な水が追うように洗い流した。浄化の水は下流の諸都市に流れていった。
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トラム川を左手に見ながら、吟遊詩人のサシ・カシュウは歩き続けた。すでにダワを出てから十日は経っている。
(もうダワの戦いは終わっただろう。ベリック王もブライス王も無事だといいが)
そう思いながら何気なくトラム川を覗き込んだサシは、川の水から赤みが消え、透明になっているのを知って顔を輝かせた。
(トーム・ザンプタは成功したようだな)
さらに数日川に沿って歩いていると、川下のほうから水のざわめく音が聞こえてきた。サシが振り返って川を見つめていると、川面一杯に輝く水しぶきをあげながら魚が遡っていくのが見えた。
「おお、これは」
サシはその光景の美しさに目をみはった。
(川に命が戻ってきた。ミッチ・ピッチ、あなたから弟への贈り物ですね)
魚によって波立った川面は太陽の光を受けて空よりも明るく輝いた。
吟遊詩人は竪琴を取り出すと、心を込めて歌をつくった。星に憧れ、花を愛した海の妖精の歌だった。
(第九章に続く)
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