テイリンはエイトリ神に尋ねた。 「私は具体的に誰の運命を解放すればよいのでしょうか」 「人とは限らないぞ、動物かもしれないし、もしかしたら神かもしれない。まずは姉に聞いてみよう」 エイトリ神は視線を上げると、洞窟の天井に近い空間を見つめた。するとそこに薄い雲のような光がただよい始め、やがて白い衣をまとった豊かな体格の女性の姿になった。女性はやつれたような顔でエイトリ神を見つめた、エイトリ神が心配そうに声をかけた。 「ミルトラ、辛そうですね」 「セントーンの民が毎日死に続けています、セントーンの力は消滅寸前なのです。エイトリ、お前はずいぶん元気になったようね」 「そうでもありません、見た目は子供の体から成長してここまで戻りました。しかしリラの巻物の守護者の力が衰えています」 「エルセントにいるスハーラね、どうして」 「おそらくクラハーンの目覚めです。融合しつつある聖宝の力の一時的なバランスの崩れが、癒し手にかかっているのでしょう」 「行ってみてあげなさい」 「ええ、カスハの冠の守護者が戻りましたら」 ミルトラ神は微笑んだ。 「元気で頑張っているのはクライドンとエルディくらいのものですね」 エイトリ神も笑った。 「あの二人は疲れを知りませんから、そうだ、バリオラも戻ってきましたがとても動ける状態では無いようです」 「そうですか」 ミルトラは心配そうにうなずくと、人間達を見回した。 「解放する者達ですね」 豊穣の女神は一人一人の顔を見つめた後、テイリンに目をとめた。 「わが父アイシムの魔法使いよ、よくぞ来ました。あなたはかつて私の泉に触れた事がありますね」 「ええ、ミルトラ様の水をいただきました。そのおかげで巨竜ドラティの卵が孵化して、その子供が今、地上にいます」 テイリン達の後ろで成り行きをうかがっていたティズリが、イサシと顔を見合わせて驚きの声を上げた。 「ドラティに子供だと、馬鹿な」 テイリンが振り向いて言った。 「いや、実際にいるんだ。アンタルという名前だよ」 エイトリ神がミルトラ神に尋ねた。 「解放する者達は何を探せばいいと思いますか」 「知恵の神はあなたでしょう、私よりも詳しいはず」 「いえ、これは知恵ではなく情報の問題です、まずはあなたの痛みを教えてください」 ミルトラ神は躊躇すること無く答えた。 「水です、民に与える力の源である多くの川が汚されました」 「それはシュシュシュ・フストが命をかけて浄化したはず」 「ええ、南の水は浄化され、ミッチ・ピッチのおかげで生命も戻りました」 「それでは探すべきは」 「北の水、ランスタイン山脈の中の水脈」 ティズリがハッと息をのんだ、それを察知したジェ・ダンがテイリンに意識を放った。 (あの娘が何か知っている) テイリンはティズリを振り返った。 「あなたが呼ばれた理由がわかってきた」 「あたしは何も知らないよ」 「二百年前、ランスタインの山奥の村の井戸が毒に冒された。村長の三人の娘が連れ去られ、その村はやがて滅んだ。私はその村の中央の井戸で黒い冠の魔法使いに出会い、彼から水をもらった」 イサシがうーんと唸って顎をなでた。 「タルミの里か、通り抜けた事はあるが、確かにエイトリ神のおっしゃるように井戸は枯れていた」 エイトリ神がうなずいた。 「やはり行くべきはそこだな」 イサシが不思議そうに尋ねた。 「私の役目は何ですかね」 「行けばわかるだろう」 「なる程、で、なぜ我々はこんな洞窟の中に呼ばれたんですか」 「もちろんここから出発するからだ」 「どういう事ですか」 「ここは大地の座、ここからセントーンの様々な場所に行く事ができる」 イサシが期待を込めて尋ねた。 「魔法であっと言う間にですか」 「いいや」 エイトリが洞窟の壁の下のほうを指差した。テイリン達は大地の座を囲む洞窟の壁にいくつもの穴が開いている事に気付いた、それを見てイサシが不安気な声を上げた。 「あれは、つまり」 「歩いていくんだよ、洞窟の中を」 「そんな」 エイトリ神は楽しそうだった。 「人間と洞窟の中を歩くと、色々と学ぶ事ができる。サルパートではいい事を教わった」 「何ですか」 「人間の女性が風呂に入る時には、私はそばにいてはいけないそうだ」 イサシは答えを求めるようにテイリンとティズリを見たが、二人の魔法使いは同時に肩をすくめた。
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芦毛の巨漢馬スウェルトにまたがったブライス王は、カインザーのクライバー男爵とその息子アントン、クライバーの参謀バンドンと、その部下達を引き連れてエルセントに近付いていた。 街道沿いにはライケン軍の末端の野営地が見受けられるようになったため、一行は道を外れて森の中を進んだ。やがて高台から遙か彼方にエルセントの塔を確認して、ブライスは馬を止めた。そこから見える町や森のあちこちに、ライケン軍の蛸の印の旗がたなびいている。 「さて、ここはもうすっかり敵の勢力圏のようだな、どうやってエルセントに入ろうか」 アントンが巨漢の友人を見上げた。 「バンドンが一緒ですよ、入る方法なんていくらでもあります。ただ」 アントンはブライスの乗馬のスウェルトに目を移した。 「君は困ったなあ」 スウェルトは不満げにバフウと息を吐いた。バンドンが言った。 「どう見ても立派な軍馬だ、連れて行けばライケンの兵士に見つかって取り上げられる。この近くの農家にでもあずけましょう」 バンドンが部下の元山賊達に手配を指示しようとした時、森の中から数名の男が現れてアントンの前に跪いた。 「私達はマスター・リケルの配下の者です、あなたの命令に従うように指示を受けて参りました」 「ちょうどよかった、スウェルトを頼む」 ブライスが驚いた。 「おい、ここから歩くのか」 「スウェルトを取られちゃっていいの」 ブライスはしぶしぶ馬から降りた。 「さあ、エルセントに案内してくれ」 同じく馬から降りたクライバーが妙な顔をした。 「アントン、お前、俺に何か隠してないか」 アントンは肩をすくめた。 「いえ、何も」 クライバーは剣を叩いてブツブツつぶやきながら、息子達の後に付いて歩き出した。
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翼の神の弟子である美貌の魔法使いミリアは、険悪な表情で元西の将マコーキンの部屋を訪れた。机の上の地図から目を上げたマコーキンは、ミリアの美しい顔に擦り傷がある事に気が付いた。 「どうしたのですか」 ミリアは殴るように拳を顔の前に持ち上げた。 「この鎖をどうにかしてちょうだい、この鎖のおかげで空を飛ぶ事もまともに出来なくなったわ」 「私には魔法の力は無いし、ましてやガザヴォックの鎖の魔法を断ち切る事などできない」 「ええ、でも一つだけ試す事ができるわ」 「何です」 「あなたを殺す事、私にも影響があるかもしれないと思って控えていたけれど、もう我慢ができない」 「なんだ、それなら私にもわかる」 マコーキンは嬉しそうに笑って立ち上がった、そして剣にチラリと目をやったが手は伸ばさなかった。 「剣を持っても無駄だろうな」 ミリアはしばらくギラギラした目でマコーキンを睨んでいたが、プイと顔をそむけた。そして部屋を出て行こうとしたミリアにマコーキンが声をかけた。 「思ったのだけど、私も一緒に飛ぶ事ができれば解決するんじゃないかな」 ミリアはびっくりして振り向いた。 「あなたの口からそんな言葉が出るなんてどうかしたの」 マコーキンは生真面目な顔で答えた。 「しばらく戦闘をしていないので、色々な事を試してみてもいいのではないかと考えたのさ」 ミリアは何も言わずに戸を閉めると庭に出た、すると近くの木陰にアタルスが立っていた。近付いたミリアにアタルスが報告した。 「手がかりがありません、イサシとイサシを助け出した何者かは消えました。魔法を使ったのでしょうか」 「イサシを助け出す魔法を使ったのはメド・ラザードの娘のティズリよ。でも消えたのは彼女の魔法ではないわね、探しても無駄でしょう」 「あれ程逃がさないと申し上げたのに、イサシを逃がしてしまいました」 きびしい表情だったミリアの顔が和らいだ。 「仕方無いわ、私もイサシの逃亡を防ぐ事も捕まえる事も出来なかったのだから。何か他に情報は」 「イサシの件ではありませんが、バルトールを発進したロッティ子爵の軍が南下して近付いています」 「どこに向かってるの、まさかマコーキンとパールを相手に戦ったりしないでしょうね。ほとんどのカインザー人は敵の軍の横を素通りできないから」 「ロッティ子爵はそれができる希有な人物らしいですよ、真っ直ぐにエルセントに向かっています。エルセントの北にマルヴェスター様の率いるトラゼール城の兵がいますから、そこに合流するつもりなのでしょう」 「素晴らしいわ、彼らが力を合わせればキルティアの軍を崩せる」 「キルティアにもそれは判っています、エルセントへの総攻撃は間近でしょう」 「そうね」 ミリアは見えない魔法の鎖を確かめるように、手首を見つめて考え込んだ。
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ライケンのユマール艦隊による、エルセントの南の城壁への砲撃が続いている。第一の城壁は広範囲に渡って崩れ、すでに砲弾は第二の城壁の一部にも届き始めていた。 城壁の様子を視察に来たセルダンに、守備隊の指揮官であるベリックが言った。 「そろそろ総攻撃が来ますね」 「ああ、むしろ早く来て欲しい。局地戦ならば勝てる、小さな勝利を積み重ねて時間を稼げばベロフもロッティもやって来る」 「リケルから連絡がありました。もうすぐブライスとクライバー、バンドン、アントンが着くそうです」 セルダンはにっこりした。 「よかった、クライバーが来れば最前線の戦闘の指揮がまかせられる。それにブライスが戻れば聖宝も六つ揃う、これでスハーラさんに元気が戻ればいいけど」 ベリックが首をかしげた。 「何が原因なんでしょう、スハーラさんだけ元気を無くしている」 「魔法が関係していると思う。でもマルヴェスター様が城外に出てしまったので、ここには魔法に詳しい者がいないから本当の理由は判らないなあ」 「ええ、そうですね」 二人は首を振って視線をライケンの軍に戻した。ユマールの兵はまだミルバ川の対岸に布陣したまま動いていない。しかし、崩れた城壁から侵入しようとしているのが、兵士だけでは無い事に二人は気付いていなかった。 何夜にも渡って夜の闇にまぎれ、瓦礫をよじ登り、隙間に身をくぐらせて約二百匹の山猫マーバルが密かにエルセントに侵入した。そしてすべてのマーバルの侵入を見届けた後、リーダーである一際大きな山猫が城内に踏み込んで短く鳴いた。 その山猫の名をチャガと言う。
(第三十二章に続く)
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