ユマールの将ライケンは、陣地の後方に建てられた屋敷の中で豪華な食事を前にしていた。雄大なミルバ川の対岸では、東の将キルティアとカインザーの諸将が懸命に兵を動かしているのだろう、しかしここまではその音は聞こえてこない。食卓の横の大きな机の上にはエルセント周辺の大きな地図が置かれてあり、参謀のミハエル侯爵が隣の部屋で情勢を集めては、ライケンの部屋を訪れて黙って地図の上に置かれた馬の形の駒を動かしては出てゆく。 そのミハエル侯爵が、部屋に入って来るとライケンに一通の封書を手渡した、キルティアからのものだった。ライケンはテーブルから食用ナイフを取り上げると封を切った、そしてキルティア直筆の書状を開いた。そこには意外にも繊細な文字で短いメッセージが書かれていた。ライケンは読み終えると、ミハエル侯爵に向けて書状を机の上に放った。ミハエル侯爵が書状に目を通して驚きの声を上げた。 「何とキルティアから」 ライケンが片肘で椅子の太い肘掛に頬杖をついてニヤニヤした。 「自分の軍が劣勢になったら、自分もろとも艦砲射撃でカインザー軍を撃ち砕けと言ってきた」 ミハエルは唾を飲み込んだ。 「確かにそうすればソンタール帝国最大の敵カインザー軍と、このセントーンでの最大のライバルであるキルティアを一気に葬り去れますが」 「将の本性だろうな、勝手気ままなキルティアだが、最後は帝国への忠誠心が勝ったのかもしれん」 そう言いながら、ソンタールの将の孤独を知るライケンは内心思った。 (レリーバもデッサもマーバルも去った、キルティアはもう生き延びる事など考えておらん、敵さえ滅ぼせれば良いのだろう) 「攻撃なさいますか」 ライケンは手にしていたグラスを置いた。 「エルガデール城への最後の攻撃の時、城壁にはセルダン王子がいた。つまり黒い冠の魔法使いは敗れたのだ、しかしあの巨獣までセルダン王子が倒したとは思えない。つまり巨獣は野放しになった、おそらくここにやって来る」 ミハエルは青ざめた。 「あの怪物は尋常ではありません」 「ああ、もう破壊されてしまった都エルセントに用は無い。すでに私は勝った、キルティアもカインザーもセントーンも勝手に滅べばいい。巨獣はエルガデール城に残ったシャンダイアの聖宝の守護者にまかせてここを離れよう」 「その通りでございますね、巻き添えはご免です」 その後、ミハエル侯爵は度々ライケンの元を訪れ、地図の上の駒の位置は次第に変化していった。予想通り、ロッティ子爵の騎馬軍団がキルティア軍の下流側の端に波状攻撃をかけて削り取り、クライバー、ベロフ両男爵の軍が陣形の乱れたキルティアの兵士たちを手際よく片付けているらしい。ライケンはかすかな寒気を感じた。 (元々ここに来ているカインザーの三人の貴族は機動力と攻撃の鋭さを特徴としている。カインザーには破壊力ではトルソン侯爵、ベーレンス伯爵、オルドン王といった重量級の相手がまだ無傷で残っている。しかし目の前の軽量級の三人の貴族に兵力で勝るキルティアが敵わない) 静かに部屋に入って来たミハエル侯爵がライケンに告げた。 「キルティアの軍が上流に移動を開始しました」 ライケンは苦笑いした。 「完全に圧されたか」 「いかがいたしましょうか、キルティアごとカインザー軍を砲撃しますか」 ライケンはエルセントの西側の一か所を指で叩いた、そこには黒い駒が数個置いてある。 「マコーキンは何をしている」 「動いておりません、最初はカインザーの後方を攻めるかと思いましたが」 「だろうな、それでは乱戦に巻き込まれて少数のマコーキン軍は壊滅する。おそらくキルティアの退路を作るつもりだろう」 「たった二万程の兵でそれが出来ますか」 「出来るから動かないのだ、マコーキンはロッティ、ベロフ、クライバーと渡り合える自信がある。カインザーでトルソンやベーレンスやオルドン王その人と戦ってきたのだ。マコーキンに使いを出せ、わしの傘下に入れと」 「応じないでしょう、彼はハルバルト元帥の子飼いです」 「駄目でも良い、あの男が欲しい」 ミハエルはかしこまったまま立っていた、ライケンは言った。 「砲撃はしない」 「しかし」 ライケン・ジマハールは厳しい顔で怒ったように言った。 「戦って勝つ、この兵力の差でカインザー軍を叩き潰せなければ、ソンタールの覇者にはなれん」 長年ユマールの将に仕えてきたミハエル侯爵は、そう言い放ったライケンの姿に初めて恐怖を覚えた。
(第六十三章に続く)
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