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シャンダイア物語

第六十四章 白と黒

福田弘生

 

 黒い獣は魔法に導かれてエルセントの沖合まで泳ぎ着いた。海上に頭を出した獣の目には陸地もその上に立ち並ぶ建物も黒い影に見える。しかしその中でひときわ高く聳え立つ建物の上に輝かしい魔法の光が見えた。獣はその光に怯えた、そしてその光を食い尽さねばと思った。
 獣の進む前方の海上には、無数の巨大な船が停泊していた。しかしその船は獣の体が触れるだけで炭と化して海上に散った。船を失ったライケンの艦隊の兵達は海上にバラバラと舞い落ちて海中に飲み込まれた。
 獣は七本の腕で荒々しく水をかくと、まっしぐらにエルセントの港に進んだ。闇を撒いて泳ぐ獣の上空だけは太陽を隠すように黒い雲がかかって渦を巻いている。その雲の下に緑色の姿がよぎり、獣の心に声が響いた。
(聞こえるかい、黒い獣。僕はアンタル、古き竜ドラティの息子。君は魔法使いから解放された、もう戦う理由は無い、海に帰るんだ)
 獣は空を振り仰いで叫び声を上げた、何かむしょうにその竜の存在が不快だったのだ。闇の存在でも無いし光の存在でも無い、しかし上空に飛んでいるのは確かに古代の魔法の生物だった。上空を飛ぶ小型の竜は、その叫びに驚いたように陸地へと去っていった。
 獣は光の魔法を目指して陸地に上がった、そしてその魔法とは違う別の魔法の存在を感知した。今は息を潜めているが、遥か西の彼方の平原に確かにそれはある。それは目の前の光の魔法より心地良いものだった、自らの存在を認めてくれる根源の魔法、光と闇を司る秤の魔法がそこにある。
 獣は目標を平原の魔法に切り替えた。巨大な建物の上にある不快な魔法を避けて西に進路を変えようとした時、目の前にもう一つの魔法が現れた。ちっぽけな生き物の姿、その生き物の存在も獣に不快感を与えるものだった。これは光の魔法、だが少し闇に穢れた魔法。
 獣は混乱して再び叫び声をあげた。

 エルガデール城の城壁の上で、その叫び声を聞いたブライスが肩をすくめた。
「何という不気味な声だ、あいつは何をしているんだろう」
 マルヴェスターが杖でカツカツと敷石を叩いた。
「混乱しておるらしい、ここには魔法がたくさんあるからな」
 二人の後ろでアーヤが口をとがらせた。
「魔法って、私達とおじいちゃんだけじゃない」
「ちがうのだ、ミリアに何かが起きた事は知っておるだろう、どうやらミリアとなぜかマコーキンが秤の魔法に選ばれたらしい。それが魔獣を引き寄せている」
 ベリックがうなった。
「エルセントの城壁の西には敵と味方を合わせて多くの兵がいます、北にはこの城から避難したセントーンの王族の方々、さらに南にはエルセントの避難民達もいる。だめです、獣をまっすぐにこの城に引き寄せてこの城だけで食い止めなければ」
 セルダンはカンゼルの剣を抜いてアンタルを呼んだ。
「アンタール」
 陸に上がった獣の周囲の建物が次々に黒い粉になって崩れてゆく、城の上空を舞っていたアンタルはその闇に引きずり込まれるのを恐れるかのようにフラフラとエルガデール城に飛んで来て城の城壁の上の石畳の広場に着地した。
 セルダンは駆け寄るとアンタルの背に乗った。
「あの獣は僕を知っている、僕を獣の所まで急いで運んで」
 アンタルは不安げに身震いした、それを見ていたエルネイア姫が怒ったように言った。
「また勝手な事を」
 セルダンはキッと振り向いた。
「必要なんだエル、あの怪物は僕達が倒さなければならないんだ。どうしてもここに連れて来る」
 なおセルダンにすがろうとするエルネイア姫をマルヴェスターが止めた。
「セルダンの言う通りだ」
 エルネイア姫はスハーラに身を寄せて泣きじゃくった。セルダンは仲間に背を向けると、アンタルの背に乗って飛び立った。

 獣はなじみのある魔法が近づいて来る事に気付いた。荒々しい光の魔法の中でも最強の魔法、剣の魔法だ。先程の竜が近づいて来ると、剣の乗り手が下りた。そして剣の魔法の使い手は獣の目の前にいる生き物に近づいた。

 セルダンは黒い獣の前に猪が立ちはだかるように立っているのを見つけて呼びかけた。
「デクト、そうですよね」
 猪は一瞬体を震わせると、ゆらめくようにクラハーン神の神官デクトの姿に変身した。
「おひさしぶりですセルダン王子」
 デクトはそう言うと巨大な獣を見上げた。
「何とも、これ程の暗黒はガザヴォックその人以外に会った事が無い」
「デクト、この獣はエルセントの西の平原にいるミリア様とマコーキン将軍に引かれています、何とかエルガデール城にいる聖宝の守護者達とマルヴェスター様の所に誘導したい」
「なぜその二人に引かれるのです」
「二人が秤の魔法に関係しているとマルヴェスター様はおっしゃっていました」
 獣はとまどったようにセルダンとデクトを見降ろした。セルダンが獣の目を見返した。
「どうしたんだろう、先程から動かない」
 デクトが言った。
「この獣は魔法使いの手を離れてから、純粋に魔法の力を求めてここまで来ました。その魔法が色々あるので迷っているのです」

 空気中にピリピリするような殺気がただよい始めたのを感じたユマールの将ライケンは、陣営の建物から外に出て、東の海の方角の上空に出現した黒い空を見つめた。
「来たか化け物」
 後を付いて外に出たミハエル侯爵が蒼白な顔で言った。
「困りました、兵がミルバ川を渡っています」 
「すぐに引かせろ」
 ライケンの命令の元、ユマール軍は川をもう一度逆に渡って退却を始めた。

 カインザー軍を指揮するロッティ、ベロフ、クライバーの三人の貴族も異変に気付いていた、クライバーは東の空に視線を向けると、剣で肩をポンポンと叩いた。
「怪物がおいでなすったぜ。さてどうするロッティ、セルダン王子達が怪物を食い止める事を信じてライケンの軍を追いかけるか」
 ロッティは首を振った。
「マルヴェスター様からなるべく離れろと指示を受けている、全軍、西に移動だ。後方の陣地にいる連中にも連絡をしてくれ」

 退却したキルティアを見送った元西の将マコーキンは、自らの兵にパール軍、キルティア軍を吸収して、すでにエルセントから離れて西に撤退を開始している。
 マコーキンの隣で馬を進めていたミリアが小さな悲鳴を上げた。
「来たわよ獣が」
 同じく隣にいた参謀のバーンがマコーキンに言った。
「キルティア様の言葉通りこのままグラン・エルバに戻りましょう」
「ライケンを置いてゆくのか」
「兵力だけで勝てるのであればライケンは負けますまい、しかしもしライケンが負けてしまえば我々は完全に孤軍となります」
 そこでバーンは考え込んだ。
「さてどこに向かいましょう、北ではすでにバルトールが復興を始めています。南を回れば南の将の要塞にシャンダイア軍が入っている、やはりキルティア様の後を追って東の将の要塞を通って帰りましょうか」
「いや遠すぎる」
 マコーキンは西を指差した、遥か彼方にランスタインの大山脈が見える。
「あれを越えるのですか」
 マコーキンはうなずいた。
「あの山の中に一か所だけ、セントーンとソンタールを結ぶ道がある」
「さて、山の中に道がありましたでしょうか」
「タルミの里にセントーンとソンタール両側に開いた扉がある」
 バーンはうなずいた。
「ああ、確かに伝説がありましたが、しかし今では」
「いや、あるんだ。そこが一番近いし道も知っている」
「しかし冬の真っただ中です」
「二か月、山麓で準備をする、そして雪解けと共に山を越える。南や北に迂回するより安全で速い」
 バーンはマコーキンを見つめた、その向こうでミリアがウィンクした。
「将軍に従いましょう、確かに準備期間を入れてもそれがグラン・エルバに戻る最短の方法になるわ」

 (第六十五章に続く


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