G#: 呼ぶ声
最近、妙にふさぎ込むことが多くなった。自分を含めたこの世界全体が嫌で嫌でたまらないのだ。と同時に夢を見るようになった。見慣れない女、ずいぶん年を取っているようでいてしかも若々しい女が霧の中でぼくを呼んでいる。その姿は最初のうちぼんやりしていたが夜毎にはっきりとしてきて、ついにある夜、女はぼくの前に立ってぼくの名を口にした。それは人間のことばではなく発音することさえできなかったが、女はそれこそがぼくの本当の名なのだと告げる。
「さあ修行をはじめましょう。合図したらわたしの歩いた通りに歩くのです」
女は霧の中にかすかに見える細い道をしばらく歩き、振り返ってぼくを招いた。歩き出そうとして、ようやくぼくは気づく。ぼくは険しい山の頂に立っていて、女が招いているもうひとつの山の頂へは高い針葉樹の梢を渡って行くしかないのだった。女はかすかに微笑んでもう一度ぼくの名を呼んだ。
ぼくはすでに理解していた。ぼくは夢の中で針葉樹の梢から転落して何度も死ぬだろう。それでもぼくは目を覚ますことができず、何度でもこの行を繰り返す。そして、ついにこの行をやり遂げる時、ぼくはまったく新しい身体の中に目覚めるのだ。
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