うちの課長は最先端。

6. 顧客監査で最先端! 《前編》

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「阿久戸課長、工場への研修の指示が来てますね。工場へは」

「行ったことないです。行ってみたいですっ」

本来は役職オンリーのメールだが、油井係長がそっと転送してくれている。

このお人は、こういうところがあるんで憎めないぜ。

メールは役員直々の指示で、管理職の研修としては結構な期間だ。

「今回は初めてってことで、経理にお願いしてお供を一人つけていいことにしてもらいましたからね」

油井係長がこちらに目配せしているよ。

あなたは神だ。

と、思いきや。背後で野郎どもが荒い鼻息を吹き散らかしてるんですけど。

振り向けば、課員が全員目からビーム出しそうな勢いでA子に熱視線送ってる。

こ、これは。課の団結が裏目に出て、バトルロワイヤルの修羅場に転じかねないぜ。

当然その戦い、俺も参加するけどな。

「それはとっても助かります。じゃあ」

A子はキュルッと首を振る。

そして、真っ直ぐ俺の方を見た。

決して目移りすることもなく、既に決めていたかのように。

「葉室くん、忙しいのにごめんねなんだけど、工場に一緒に行ってくれるかな」

い、い、いやったあ―! 

心の中でガッツポーズの俺。

そして荒い鼻息一転、野郎どもの落胆のため息風が、課に吹き荒れるのであった。

いや、待て待て。ロボだよロボ。トキめいてどうする、俺。

おまけに上司と出張なんて、羽も伸ばせない不自由旅行の極致じゃないか。

でも、でもね。

ああっ、A子、まだこっち見てニコニコしてる。俺もつられて頬が緩んじまうよ。

向こうに着いたら、二人きりですね。

だ、だめだ。ここから先は考えちゃいけない、越えちゃいけない世界だ。封印。


傷心のせめてもの慰みにと、課員たちはA子に出張手続きをレクチャーするためぞろぞろついていった。なにもそんな大勢で行かなくても。

「それはさておき油井係長、課長は飛行機に乗れるのでしょうか」

俺たちは、鼻歌混じりで出張手続きをしているA子を遠目に見やる。

「細かいことは気にするな。しれっと行くんだ。しれっと」

「はあ」

無茶苦茶言いよる。


羽田から飛行機で一時間半、工場のある地方都市の空港まではあっという間だ。

タクシーは散々曲がりくねった山道を走り、結局現地入りしたのは夕方になった。

翌朝、俺たちは朝礼に間に合うように早々にホテルを出る。そこでA子の紹介をする予定になっている。

「あそこがうちの工場ですよ」

「おお~」

小高い丘の森の陰から顔を出す、現代的なガラス張りの事務所棟、そして明るい彩色の工場建屋。

「大きくはないですけど、設備も周りの環境も、よそのメーカーに比べて悪くないんじゃないかと」

「おお~」

工場へと続く山道は舗装されており、A子は傾斜を確かめるように歩いたり、スケートで滑ったりしている。

構内への入場ゲートも、資格認証が求められる。導入時はコストでもめたけど、今じゃどこの工場も、この程度のセキュリティは当たり前になってるよね。

「社員証をここに当てたらゲートが開きますからね」

「はぁい」

守衛のおじいちゃんが、突如現れたピンク頭の訪問者に目を白黒させてるのが見えた。

驚きすぎて、ひっくり返ってなきゃいいけど。


「工場長の和久井です、阿久戸課長、ようこそ工場へ」

実は俺も、今の工場長には面識が無かったんだよね。

結構出入りの激しいポジションだからさ。

「それでは工場のみんなに紹介しましょう」

中肉中背、どちらかというと中間管理職的なオーラをかもし出す工場長。

その工場長に連れられ、俺たちは朝礼の場に顔を出した。

「商品企画課、阿久戸と申します。よろしくお願いいたします」

笑顔で拍手をする工場スタッフたち。

それを見て、ちょっとホッとする俺。

この工場は、一部の課長以上は全て本社から送り込んでいる。それ以外のみんなはローカル採用、地元の人が中心ってわけだ。

「えー、商品企画課の葉室と申します」

「葉室くんはいいよ。みんな知ってるし」

隅っこのパートのおばちゃんが野次を飛ばし、どっと笑いに包まれた。

ひでぇなぁ。

まあ、他人行儀よりは百倍マシだ。逆に悪い気はしないよ。

俺は頭をかきながら引っこんだ。

「それでは。僕はちょっと打合せが続くんで、先にお話を、ちょっと」

和久井工場長は朝礼を散会させ、俺たちを工場長室に連れてゆく。


「阿久戸課長、葉室君、研修と銘打ってはいるが、実際に課題をこなしていただきたい」

きたっ。

そりゃそうだよね。管理職が出張までして研修とか、資格やセミナー以外であるわけないもん。

「はいっ」

ああっ。A子もA子で、内容聞かずにいいお返事だよ。

「このあいだ、星井主任が顧客の監査で来ていたんだが」

きたきたっ。やっぱりこれかっ。

そりゃそうだよね。課題と来てタイミングと言えば、これしかないもん。

「顧客から、何点か指摘があったようだ。聞いているかね」

『あったようだ』って和久井工場長、その言い方はどう聞いても、他人事だよね。

A子も俺も首を振る。

俺の方は星井主任から聞いてるから嘘だけど、詳しいことは聞いてないんだからセーフ。

「僕のところまで詳細は上がってきていないんだが、その問題点の解決に対応してほしい。スタッフを自由に使ってもらって結構。もちろん事前に知らせてもらうがね」

A子はともかく、俺の表情はよろしくなかったことだろうよ。

だって、これ本当は本社じゃなくて、工場サイドがやるべき仕事じゃないんですかい。

しかしA子はそんな俺の憤りを知らずに二つ返事だった。

「まずは現状把握から始めさせていただきます」

「おお、そうしてください。協力は惜しみません」

和久井工場長、工場から本社にボールが移ったもんだから、露骨に嬉しそうだ。

いいのかよ、A子。

「それでは阿久戸課長、葉室君、よろしく頼みます」

そう言い残してニコニコ笑顔で席を立つ。

「厄介ごとを押し付けられましたね」

「いいの。本社として、工場さんを応援するのは当然のことなの」

人のいいことを言うA子。

俺もつられて心のカドが取れた気がした。

それよりなによりホッとしたのは、A子の出張は工場に転属させる前触れじゃなかったってことだ。

なんだ、俺の早合点だったみたい。たはは。


***************


「ここ、有線ないのかな」

A子がキョロキョロ壁や床に視線を這わせている。

どうやら通信のLANケーブルを探しているようだ。

「この一角だけないみたいですね。ノートパソコンなら無線でもつながるみたいですけど」

「無線デバイス、外してきちゃった」

「外す」

どういうことだ。会社支給のノートパソコンはそんな器用なこと出来ないように本体に封印がしてあるはずだぞ。

A子がうなじをさすっている。

あそこには、様々なコネクタが仕込んであるはずだ。

まさか。

通信ってのは、パソコンの方じゃなくて。

「ちょっと頭痛がして、ひょっとしたらと思ってラボで外してもらったら、案の定すっきりしちゃって。ほら、相性だったと思うの」

ご本人様が通信するんでしたか。

もう驚かないよ。逆に「今時有線ですかぁ」とか言いたいぐらいだよ。

「このコーナーにもケーブル用意してもらいましょう。大体急ごしらえすぎるから」

そう。俺たちのいるコーナーは、会議机にパーティションで作られた、急造オフィスだ。

お客じゃないから応接室とまでは言わないけど、業務に支障が出るのは、ちといただけないよね。

俺は早速スタッフさんに依頼をし、スタッフさんも恐縮して対応を約束してくれたのだった。

「まずは担当の星井主任に情報を出してもらいましょう」

直接の担当者は彼だ。聞いた方が早いだろう。

彼のことだ、本社と工場でボールの押し付け合いは、当事者なので当然知ってたな。

星井主任、残念。

俺が持ってます。今、本社がボールもってます。

A子が率先して受けちゃいました、とは言わないでおこう。


「いらっしゃあい。お二人さん」

パーティションの陰から、長身がぬっと現れた。

タッパはあるが、星井主任とは打って変わって細身だ。タレ目にリーゼントが、いかにも時代遅れの伊達男。

試作課の須賀烈(すが・れつ)課長だ。

ちなみに工場試作課は課長のみ。一人部署である。

「楽しんでるぅ? 」

「何をです、何を」

彼は量産の拠点である工場においては、唯一の研究開発の味方と言っても過言ではない。

その特異なキャラで飄々と量産ラインを守るスタッフたちと渡り合い、折衝し、単発ロットである試作品をラインに混ぜてくれるのだ。

頼れる兄貴であり、決しておカマではない。


「それで、この書類置いてったんだわ」

須賀課長から受け取った書類に目を通す。

「お客さんから出た宿題、ドキュメンテーション系の要求ばっかりじゃないですか」

「そのとぉり」

この書類を出してください。

それがドキュメント系要求だ。

言葉で説明するとエライ簡単に聞こえる。しかし、事はそう単純ではないのよ。

「工場で持っている書類を提出しても、ダメってことなんですね」

「そのとぉり」

須賀課長の二回目のそのとぉりは、かなりのトーンダウンだった。

なるほど、工場は本社の指定した書式や品質規格で、日々の製造の記録や出荷を書類にしている。お客さんの欲しい製品の、量産立ち上げ時の資料も同じくだ。

しかし、お客さんはお客さんの指定するフォーマットの書類を希望することがある。これは書き直せば済むから簡単なんだけど、項目がお客の要求と合わないときが、大問題なのだ。

例えば、うちの工場では製品を50℃で耐熱検査してるとしよう。

お客さんの要求は、実は60℃でした。

もうこうなったら、書類の問題じゃなくなっちまうよね。


星井主任がそんなヘタ打つわけないだろうけど、この例は実際ありました。ぎゃふん。

「お客の指摘しているところ、うちの規格と合うかどうか逐一照らし合わせていくしかないですね」

「やっぱ、それしかないよねぇ」

須賀課長も同じ考えだったようだ。

しかし、並大抵の作業量ではないぞ。

さっきの例みたいのが一個でもあった日には、そりゃあもう。

おまけに。

「この書類、英文のも混ざってますけど」

須賀課長が悲しそうな顔をすると、倍増しでタレ目になる。

「そこよそこ」

尻込みと言っては言葉が悪いが、工場側がなんとかかわそうとした理由がよく分かるぜ。

このお客の要求は、海外の規格にのっとってる。それもあまりメジャーでないやつだ。

「言葉の壁もさることながら。手強い相手だねぇ」

須賀課長も俺も腕組みし、A子も真似して腕組みしている。

わかってやってるんだろうか。


「あの、LAN接続の用意、できました」

パーティションからひょっこり顔を出し、工場スタッフさんがA子に告げた。

「やったぁ」

A子は躍り上がって飛び跳ねた。

そんなに嬉しいんだ。ネット中毒か。

ケーブルをうなじにつなぎ、再び腕組みして沈思黙考スタイルに入る。

「こうやって見ると、ほんっと最先端ロボなのね」

須賀課長の耳打ちに、苦笑しつつ頷く俺。

「ねぇ」

A子の沈黙は、長くはなかった。

パーティションの白い壁を指さし、いつものモーターやアクチュエータの音とは一味違う、異質の駆動とファンの音を立て始めた。

「見て見て。違う、わたしじゃなくてあっち」

俺たちは、奇怪な音を立てるA子ではなく、その指さす先を見直した。

すっと光の壁が映し出され、先ほどまで見ていた資料が投影されている。

「こ、これは」

「スライドプロジェクト機能」

A子の最先端の目から、強い光とともにプレゼンテーションが映し出されている。

「これは、欧州特殊防爆規格ね。こっちは環境関連と化学物質安全データベース」

「おおっ」

「ネット直通か」

さすがだ。

人間が頭で考えてパソコンのキーボード打って、みたいなまどろっこしい段階もすっ飛ばして、A子が頭の中で考えているものが、瞬時にふさわしい形で目からアウトプットされている。

まさしく最先端の作業スピード、最先端の工数削減だ。

「驚いた」

いや、須賀課長、あなたの部署も研開の下部じゃないですか。

驚いてちゃ、ちとまずいですよ。離れ小島にひとりぼっち感がでちゃう。

「この要求は大事かも。でもこっちのはうちは関係ないと思うのね」

「うおお、阿久戸課長、どんどんその調子でお願いしますよぉ」

「わかった。エヘン」

須賀課長はお世辞じゃなくて、心底絶賛だ。

もちろん俺も。

A子が講評を垂れていく端から、どんどん自分のパソコンのスプレッドシートにリストアップしていく。

「あっ、これはまずいかも。リダンダンシー」

「冗長性か」

須賀課長が険しい顔をする。

久々に真面目な顔を見て滑稽、いや失礼事態の重大さを知らされる思いだ。

リダンダンシー要求とは、生産ラインにトラブルがあった時のために、予備の生産能力を持たせることだね。

単刀直入に言うと会社から、マイカー通勤の人は事故った時のために、もう一台車買っといてくださいって言われるようなものだ。大げさじゃなくて、これで的確に表現できてますよ。

「今までこんな要求に対応したことないからなぁ」

須賀課長の言う通りで、そもそも普通はお客さんがそこまで要求してこない。

しかしそれはお客さんがよその製品も仕入れてて、うちの供給が何かあっても困らない時だよね。二社購買ってやつ。

「この要求、まずは保留しましょう。時間ないからあんまし先送りにはできないけれど」

「わかったわ」

A子は脳内スライドをパラパラ流してゆき、顧客の要求は一通り目を通し終わった。


「明日にでも、幹部会議で検討してみよう、ってさ」

須賀課長から和久井工場長に話が通り、早速対応を話し合うことになったようだ。

反応の速さから、事の重大さが再び浮き彫りにされる。

それだけ、このお客は旨味があるんだ。


あくる日の幹部会議は和久井工場長臨席の元、御前会議の様相を呈し……ってのは冗談で、工場五部門と呼ばれる部署のリーダーたちが、A子課長のプレゼンを聞きに集まった。

ちなみにスライドはA子の眼からじゃなくて、備え付けのプロジェクタで映してるよ。

いずれも壮中年層、脂ののったいかついおやじたちだ。

焦点は当然、最大のコストを危惧される例のリダンダンシー対応、ライン増設要否。

だが、まずはこの件以外からだ。

A子は小さな解決しやすい問題から協力を仰ぎ、時折手間のかかりそうな要求に話題を持っていく。

「おおっ」

「たった一日でここまで要求の出元を確かめたのか」

歓声を上げるリーダーたち。

直接うなじにケーブル挿した姿を見せてあげたかったよ。

眼からスライド映すところも。

リーダーさんたち、普段は「物は作らんくせに口だけ出す本社」とか、「書類屋」とか、散々陰で言ってるらしいじゃないですか、知ってるよ。

でも、これだけドキュメンテーション・エンジニアリングの最先端を目の前にしたら、どうよ。

書類屋も極めるとすごいんだっての、俺ですら感動で寒気覚えるぜ。

リーダーたちもさすがに頑なさを解いて、

「こいつは手間だが、さっきの案件三つを営業さんが手伝ってくれるんなら、うちで呑みましょう」

とか、

「うちは英語が得意なヤツいないんで、ネタはしっかり揃えますんで、報告書の仕上げだけ営業さんの方で頼んます」

とか。

折衝は、順次形がついてゆく。細かいところは個別対応だ。

日ごろは良くて電話会議ぐらいの仲。折角のフェイス・トゥ・フェイスの機会にコミュニケーションはしっかり取らなきゃね。


さあ、本番だ。本題、いってみよう。

「ダメだ。馬鹿言っちゃいかん」

たはあっ。開口一番即答でバッサリだよ。

しかもご発言の主は、座でも和久井工場長の次席、製造グループリーダー様だ。

「顧客の要望でラインの増設など対応しようものなら、営業さんたちが『うちの客にも、うちの客にも』っていっぺんに来るだろうが」

ごもっとも。

少なくとも星井主任は、他のラインの都合は考えてないよね。

自分の客のための分が良ければ、それでよしだもん。

「これ、開発計画の時にのせてなかった設備だよね。まずいよね」

神経質そうな顔の品質管理グループリーダーが、眼鏡をずり上げながら早口で言う。

「それに尽きるな。わが社の開発プロセスを崩すようなマネを、本社さんの方から言ってきちゃ困るね。あべこべだよ」

「同感じゃ」

生産管理、設備管理のリーダーと、まるっきりいい反応は得られない。

しょうがないね、こりゃ。


じゃ、手始めに。

切るぜ、カード。

「どうでしょうか、工場側は設備の改善もしくは補修で対応、顧客には新規増設とうそぶく」

俺の提案に、リーダーたちが、ぐっと考え込む。

「費用は」

と、製造リーダー。

「この製品の開発費から捻出の方針で」

「できるのかな、そういうこと」

製造リーダーが紅一点の経理リーダーに首をぐるんと回して聞いた。

一見経理上難しそうだが、操作する場所が同じ生産ラインだけに、紛れ込ませる潜り込ませるがなんとかいけると踏んでるんだ。

経理リーダーが微笑んだ。よし、いけるっぽい。

そう喜びかけた瞬間、水を差すものが出現した。

しかも俺の隣から。

「ちょっと待った」

須賀課長、何でですかっ。こういうのは雰囲気ですよ雰囲気。

ここで途切れさせたら、風向き変わっちゃう。

俺は内心で恨み言を投げつけまくる。

「そもそもこの冗長性対応、どうにかやらずに済ますってのもまだ選択肢には残ってる。いや、やるとなったときにできるようにって検討は、もちろんやるべきですけど」

うおぉおーっ! 

嘘でしょ、須賀課長。

まさかの逆噴射提案。

見てよ、経理リーダー様の『可哀想だから何とかしてあげてもいいかな、なんてちょっとでも思った私が馬鹿だった』的な眉間のシワをっ。

A子課長、何とか言ってくれよ。

「阿久戸課長、そうでしょう」

なぜか須賀課長と以心伝心、二人同時にA子を見上げた。けっ。コンチクショー。

「ええ、当該ラインはこのお客様ともう一社のみの、寡占使用ライン。冗長性を持たさずとも対応できる可能性は、ある」

えーっ。

ロボットのA子ですら「できます」と断言しないのは、製造業につきものの、品質のバラつきなどの要素を加味してのことだ。

さすが最先端、あいまいさも大事なファクターってわけだね。

いや、それどころじゃない。

えーっ。

須賀課長は研開だからいいとして、俺たちは営業部なんすから、社内に向けてはお客の味方から入りましょうよ。

まずい、リーダーたちが困惑している。

もいっちょ、切るぜ、カード。

「営業部として申し上げますと、初手で顧客の要望を聞かない姿勢を見せるのは、ちとリスクがある。まだ採用が決まったわけじゃないんで」

「ふん」

設備リーダーの白髪親父が鼻で笑ってる。『あんたら、一枚岩じゃないんかい』って顔に書いてある。

ええいままよ。

俺はA子を見上げて提案した。

「いかがでしょう、阿久戸課長。当面二案同時進行で、ぎりぎりまで様子を見ては」

「そうね、うーん、その方が良かったかも」

A子は珍しく、首のモーターをジリジリ鳴かせて迷いを見せた。

相変わらず感情表現が細かいですな。しかしその迷いを表に出すのは余計ですぜ。

和久井工場長が締めに入った。

「それでは、この件は顧客の出方を見守りながら進めるってことで、他の案件はそれぞれ個別対応。皆さん、お疲れさまでした」

言葉の節々がどうにも他人行儀なんだよ。

工場長なのに、いろいろ苦労してるんだろうな。

本社組とローカル組の間の壁を感じちゃうぜ。


須賀課長は早々に帰り、日が暮れてもなお俺とA子は例のコーナーで仕事をしてる。

「このお客さん、どうにか取りたいね」

「そうですね」

俺はちょっとホッとした。

まずはそれが基本のスピリットだよね。

研開あがりといえども、そこはしっかり持ってくれている。

「このお客さん、開発費いっぱいくれるんだね」

しかしA子の発言は、徐々に怪しくなっていく。

「新規開発製品の拡充が目指す道なの。そのためにもこのお客さんのゲットは、デカいの」

そこで立ち上がって『うっとり』をやるA子。

そうだ。

俺たちは商品企画、最も技術部に近い営業部員。

営業の頭だけでは立ち行かないのは百も承知よ。

だが、だがなぁ。

俺の不安を知ってか知らずか、最先端のドキュメンテーション・エンジニアリング娘は、書類の国のジャンヌ・ダルクよろしく、紙上の勝利の歌に酔う。

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