雀部 |
|
今月の著者インタビューは、光文社文庫から初短編集『魚舟・獣舟』を出された「アニマ・ソラリス」ではお馴染みの上田早夕里先生です。上田さん『ゼウスの檻』以来ご無沙汰してますが、よろしくお願いします。 |
上田 |
|
こちらこそ、よろしくお願いします。 本が出て、またここで取り上げてもらえるのは、本当にありがたく、うれしいことです。 |
雀部 |
|
前回、『ゼウスの檻』で著者インタビューをさせていただいてから、SF以外の小説を何冊か読ませて頂きました。 『ラ・パティスリー』('05/11)は、有名洋菓子店に勤め始めた新米パティシエの女の子と、見知らぬ男――それもパティシエとして腕っこきの――のミステリアスな出会いから幕を開けます。 高校の同級生が道路を挟んだ斜め向かいで洋菓子店やってるんで、たいへん面白く読めました。 あ、同級生とは関係なくても面白かったんですが(笑) 前二作とは全く趣向も雰囲気も違う作品ですが、謎の菓子職人・恭也の人物設定がちょっと上田さんらしいと思いました。SFと銘打たれていたら、平行宇宙ものかと思うところです(笑)
お菓子シリーズ(失礼^^;)第二弾として出されたのが『ショコラティエの勲章』('08/3)。あ〜、上田さんは、ほんとに甘党なんだなと(笑) 『ラ・パティスリー』よりさらに蘊蓄が豊富で楽しいし、甘党の女性(男性もかな)が楽しめる洒落た連作短編集ですね。個人的には、『ラ・パティスリー』より謎めいた部分がすくないぶん、純粋に蘊蓄が楽しめて好きですね。
さて、昨年の暮れに『火星ダーク・バラード』の加筆・改稿された文庫版が出たので、ブックレビューしたのですが、いかがでしたでしょうか? |
上田 |
|
とても面白く読ませて頂きました。本は読者のものなので、こういうのは、どんどんやって頂いて構いません。歓迎致します。 |
雀部 |
|
たぶん、水島なんかは、作者の意図とは違う役割を期待されちゃってたと思います(笑) ところで、『魚舟・獣舟』に収録された短篇は、アンソロジー・シリーズ《異形コレクション》に収録されたものが多いのですが、作家としてこういうSF・ファンタジー系のアンソロジー・シリーズの存在はどういう意味を持つと思われますか。 廣済堂文庫から出ていた頃からの読者としては、同一テーマで、多様な作家の方の短篇が読めるのはとても楽しみなんですが。 |
上田 |
|
作家は長編でデビューしても短編をたくさん書いたほうがいい、長編・短編を交互に書くことで、筆力が鍛えられていくのではないかと思います。異形コレクションは、そういう意味で、とてもありがたい修練の場です。監修の井上雅彦さんから、無言のうちに鍛えられている感じがします。 |
雀部 |
|
SF誌が四五冊も出ていて、短篇発表の場もそれなりにあった時代もあったんですが…… 井上さんにはいつも感謝しております。 さて、本題の『魚舟・獣舟』ですが、VALISさんはいかがでしたでしょうか。 |
VALIS |
|
生まれてくる子供は必ず双子で、片方は魚という設定は生理的にくるものがありますね。 その双子同士が操舵者と魚舟になるという設定は、短編に使うのは惜しいくらいの面白い設定です。 全然違う話ですが『デューン砂の惑星』のサンドワームを思い出しました。 |
雀部 |
|
《デューン》の世界も、アレがあれになってと生態系の描写が見事でしたから、全然違うまでは行かないと思いますが(笑)
|
VALIS |
|
獣舟の出自がわかって美緒と獣舟に感情移入しかけた矢先に、獣舟から小動物がどっと大量にこぼれ落ちてしまいました。わー、わけのわからない存在が理解できかけた途端にまたわけのわからない存在に変貌して、ちょっとしたパニックです(笑)
最後は人類の凋落を暗示しているようなもの悲しいラストで終わりますが、短編集全体を覆う何とも言えない諦観ややるせなさを代表しているように感じられ、あー、それでこの短編が短編集の題名になったのかと一人納得していました。
「私」と美緒の人間模様も同時に書き込まれ30ページの作品とは思えない密度で、十分にぬるぬるした世界を堪能できました。 |
雀部 |
|
昨春に出版された『美月の残香』も主人公が双子でしたね。 私には、双子であってもやはり違う人間だ――「魚舟・獣舟」 の場合は違う生物――という感想をもったのですが、そこらあたりはいかがでしたでしょうか? |
VALIS |
|
双子に関しては個人的には、通常の肉親以上の強い結びつきを想像してしまいますので、今回のようなヒトとヒトならざるものの双子の美緒の気持ちについては感情移入することができました。 もちろん異形の物に対する嫌悪感も同時に感じていますが。 |
雀部 |
|
さきほどの『美月の残香』や、この短編集でいうと「魚舟・獣舟」「くさびらの道」「真朱の街」「ブルーグラス」などは、“切れた絆”がテーマなのではないか、上田さんは絆――愛と言い換えても良いかも知れませんが――は悲しいけど切れるものだと考えているような気がしました。 |
上田 |
|
絆や愛というものを、作品の中心に据えて考えることはほとんどありません。それよりも、本能・直観・執着、こういった感覚に重点を置くようにしています。 愛は本能ではないのか、という意見もあるかもしれませんが、人間には、本能としての愛とそうではない愛があるような気がします。絆には、本能というよりも文化的な匂いを感じます。 本能から外れて文化的な方向へ近づいていくものほど、壊れやすく、変化しやすいのではないかと思っています。文化というのは個人のものではないし、時代の影響を大きく受けますので。
私は切れるものではなく、切れないものに興味がある人間なのです。ただ、何を切れないものとして考えるかというとき、他の人とは、少し違う方向を見ているかもしれませんね。 |
雀部 |
|
ですねぇ。愛とか絆の定義って、人によって違うと思いますし。個人的には本能としての愛は無い気がします。たぶん愛も学ぶものではないかと。 ついでに言うと、切れないものも無いと思います(笑)切りたくないもの、切れたと認めたくないものはあると思うんですが。 上田さんが、「〈人間〉も単なる生物の一種類として描こうとしている」という評を読むことがありますが、確かにそういう側面も大きいと感じてます。SFの特質の一つですし。しかし、人間に対する愛情――ダメな子ほど可愛い(笑)――も同時に感じました。いまご本人が「それが中心じゃない」と否定されたんですが、愛とか絆とかそういうセンチメンタルなものにこだわる人間の性の愛おしさを見事に描ききっていて胸が熱くなるんじゃないかと。 |
上田 |
|
ダメな子ほど可愛い――というのは、どうでしょうねぇ……。読者からそう見えてしまうことについては、私からは何とも言えないので、最近は沈黙することにしていますが(笑)
双子には面白い思い出があります。病院で働いていた頃、お昼を食べに行っていた喫茶店のマスターの奥様が一卵性の双子だったのです。双子のお姉さん(奥様)と妹さんがお店を手伝っておられたのですが、髪型も服もエプロンもまったく同じで、ほとんど区別がつきませんでした。ご主人はよく混乱しないなあと、いつも不思議でした(笑)
あと、TVで、一卵性の双子同士のご夫婦というのを見たことがあります。かなり年配の方でしたが、四人とも非常にお元気で。ご主人方が笛と太鼓を演奏して、奥様方がそれに合わせて民謡か何かを踊っている映像があって、それがとても幸せそうな姿だったので、いまでも強烈に記憶に残っています。 サークルで知り合った友人が、一卵性の双子だったこともあります。 こういう積み重ねが、小説を書くときに影響してくるんでしょうね。 |
雀部 |
|
なるほど、元となる実体験があるんですね。 栄村さんは、『魚舟・獣舟』を読まれてどんな感想を持たれましたか? |
栄村 |
|
はじめまして上田さん。よろしくおねがいします。
『魚舟・獣舟』のカバーイラストは暗示的な絵でしたね。 ダーク・ブルーの海中から、若い女性が水飛沫をあげて、空に向かって顔をあげた瞬間が描かれているのですが、向こうの水面には鯨のような巨大な獣の肋骨が、何本も白く鋭い牙のように天に向かって突きだされている。彼方の鉛色の雲間からは幾筋かの光の筋が海面に差しこんでいるものの、これははたして嵐がすぎ去った直後なのか、それとも、つかの間の静けさでこれからまた激しい嵐がやってくるのか……。 幻想的ですが、見るものに「死」と「不安」を感じさせるようなイラストですね。
物語は何か大きな災厄の到来を思わせるものでしたが、このイラストを見たとき、「それは、すべての人類への挽歌のように――いつまでも流れつづけた」という、最後の一節が頭に浮かんできました。 |
上田 |
|
カバーを描いてくれる方は、毎回、編集さんが探して来られます。今回は山本里士さんという方で、オンライン・ギャラリーはこちらです。
人物画に上品な官能性があるところや、海の描き方を気に入ってお願いしました。編集さん曰く「表題作のイメージで作ってもらった」とのことで、骨はラフ画の時点ですでにありました。作中に骨が出てくる場面はないのですが、作品の印象として、これほど適したアイテムはありません。 「死」と同時に、「生命のダイナミズム」も表現して下さっている、非常にいいカバーだと思います。 |
栄村 |
|
この作品を読んだとき、上田さんが『ゼウスの檻』の著者インタビューで「人類の何百年・何千年後かの世界を描きたい。人としての体の構造も変わり、個々人の社会的役割も変化しているでしょう」いう趣旨のことを仰っていたのを思い出し、舞台を宇宙から地球に変えて、今度は地上における生物としてのヒトの未来をテーマにしてお書きになった作品ではないかと思いました。 |
上田 |
|
自分がSFファンでもあるので、架空生態系の話にはとても愛着があります。 『ゼウスの檻』を書いた頃、ちょうど系外惑星の本(井田茂『異形の惑星 ―系外惑星形成理論から―』NHKBOOKS/2003年初版)が出て、非常に興味を持ちました。系外惑星の、地球とは化学組成の違う海に棲む生物の生態系――ひとつの生物の生態を描くだけでなく、無数の生物の関係性を描く作品というのは、非常に面白いだろうなあと。
ただ、当時の私の作家としての立ち位置では、この設定で作品を書いても、原稿を受け入れてくれる先は皆無でした。知識も不充分でした。なので、舞台を地球の海に変えることで、より内容的にわかりやすく、SFファン以外の読者にもアピールする作品になるのではないかと考えたのです。 |
栄村 |
|
『火星ダーク・バラード』に出てきた火星生命とヒトとのハイブリッド的な存在「プログレッシヴ」、そして『ゼウスの檻』に登場した両性具有の存在「ラウンド」――両作品ともヒトが宇宙で活動範囲を広げるため、人間が生物としての可能性を広げるために、われわれの見方からすれば、残酷にも見えるかたちで生み出されたものたちの話でしたね。今回の「魚舟・獣舟」では地球を舞台に、女性の体から自然に生まれたにしてもヒトの姿とは完全にかけ離れた両棲生物に近い姿の<朋>という存在が出てきます――ある意味で彼らもまたわたしたちとおなじ人間なのですが。
この存在――物語のなかでは<朋>と呼ばれていますが――生み出された理由というのは、人類が大陸が海面下に沈むという大きな破局に見舞われ、生き残るためには自身の体の構造さえも根本的に改造しなければならない事態に追いまれた――ある意味でヒトという種を生き延びさせるためには、非人道的とも見える行為を行わなければならないところまで追い詰められて、このような存在が生み出されたと思うのですが……。 |
上田 |
|
SF作家・SF読者に共通の考え方として、「〈非人道的〉とは何か」という問いかけが常にあると思います。現代の倫理観では〈非人道的〉とされている事柄でも、時代が変われば、むしろ〈人道的〉と呼べる措置になるのではないか――。そういう価値観の逆転はいつ起きるのか。一例として、大きな環境変化に見舞われたときがそれに相当すると思います。従来の倫理観がすべて破壊されてしまうほどの大きな変化が社会に訪れたとき、その先にはどんな新しい社会が生み出されるのか? この作品では、〈人間〉の定義そのものが揺らいでしまった世界……ということで、魚舟や獣舟という設定を考えてみました。 |
栄村 |
|
上田さんは以前、アニマ・ソラリスのインタビューの中で「悪とは何かということをよく考える」とおっしゃっておられましたが、価値観の逆転や倫理観の破壊は、そのテーマとも絡んでくるので、非常に複雑な問題を孕んでいますね。 『火星ダーク・バラード』の中でも書いておられましたが、火星生物と地球生物のハイブリッドを作り出す実験をしていた元研究員が、新しい技術や理論を誕生させようとしたとき、それを『悪』だと決める基準はどこにあるのか、その時代には『悪』だと思われても時がたてば正反対の価値観が生まれてすべて肯定されるかもしれない、自分たちはそういう危うい現場の最前線にいた、と述懐する場面がありました。――考えてみれば、そういう評価基準も、時がたてばまたひっくり返る可能性があるわけで、本当の基準は、その時代より後の時代の人たち、歴史の中で徐々に定まってくるのでしょうねえ……。
ただ、人間がそういう激変に遭遇した時には、大混乱の中で従来のモラルや価値観というものを一度潰して、あらためて問い直し、はじめから再構築しなければならない必要に迫られると思います。
じつはここで重要になってくるのは、『火星ダーク・バラード』に出てきた火星総合科学研究所のグレアム・バンクスとその対極に位置する年配の科学者ゲラシモフに象徴されるふたつの考え方ですね。グレアムは飛躍的に宇宙環境に適応できる新しい人類による新しい社会を誕生させる考えを持っていた。理性による歴史の進歩というものをかたく信じていた。読んでいて彼がこういうかたい信念を持ったのも、ティーン・エージャーのとき遭遇した火星への旅行中の事故は別として、じつは彼の生まれた家庭が徹底した技術主義――あらゆる問題が科学と技術の進歩によって解決可能だと考える気風の中で育ったのが素地にあったのではないかと思ったのですが。
一方、彼と激しく対立したゲラシモフは、人間はそれほど完璧な存在ではないし、この世界も合理的、理性的にすべてが割り切れるものではない。人間の力には限界があり、人知や人の力をこえた事柄はいくらでもある。それに人は過度に合理的であろうとすると予期しないあやまりを犯すものである。そんな矛盾や混沌を抱えた人間から、新しい人類を作り出し、はたして理想的な社会を作ることができるのか、という疑問を心の奥に抱いていたように思います。
あの小説はプロローグで、オリヴィアが、「人類に進化なんてものはない。ただ適応があるだけよ。環境への過剰な適応がね。」と、夫であるグレアムに言放つ、物語の行く末を暗示する場面が出てきますけれど、この「魚舟・獣舟」でも人が信じていた理性や合理性というものには、おのずから限界があり、それが崩れていく物語としても読めることができますね。 |
上田 |
|
グレアムとゲラシモフに関する解釈は、実にその通りです。
ゲラシモフは、合理主義を超える叡智を求めようとして、未だに果たせないでいる人です。グレアムから見ると実に歯切れが悪く、ただ迷っているだけに見えるでしょうが、そのゆっくりとした歩みの中で、断片的にせよ物事の真実を掴みつつある人です。その分、社会や人間に対して臆病になっている部分もあるのですが。
グレアムはとても頭のいい人ですが、人間の中にある灰色の部分をばさばさ切り捨ててしまうので(そのほうがよい局面も確かにあるのですが)どうしても孤立してしまう。本人にしてみれば、ものすごくもどかしいでしょうね。「なぜみんな、この程度のことがわからないんだ?」と。 宇宙ステーションという、人間の技術と知恵で作り上げられた完璧な人工空間で育ったグレアムが、科学に対して明るい希望を持つのは自然なことだと思います。
SF作品の中で、私自身が最も興味を感じるのは、生物、生命、にかかわる事柄です。「人が信じている理性や合理性というものには、おのずから限界があり、それが崩れていく」ということを見せやすいのも、生物を題材にとったときだと思います。
生物の本質のひとつに、「変化すること」があります。生物というのは、環境の激変によって仕方なく変化(進化)し始めたというよりも、最初から、変化することを前提として生まれてきた存在のような気がします。常に揺れやすく変化しやすく、人間の手に負えない部分が大きい。そこが、人間の理性や合理性を突き崩す展開につながりやすいのかもしれませんね。
VALISさんが仰っている「ぬるぬるとした世界」というのは、どうもこのあたりに源泉があるような気がします。 |
栄村 |
|
さきほど人間性の定義そのものが揺らいでしまった世界というお話が出ましたが、実は「魚舟・獣舟」を読んでから脚本家の馬淵薫と本多猪四郎監督の映画「フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン」(65年公開)が、急に見たくなって近くのDVDレンタル・ショップから借りてきて見ました(笑)。あの映画の設定にはSF作家のジェリー・ソウルも医学監修でかかわっていたそうで、今でいえば、iPS細胞的な機能を持つフランケンシュタインの臓器の一部を第二次大戦下、広島にある陸軍病院に運んできて医療への可能性を探るというものでした。しかし、原爆の投下により研究所のある陸軍病院は一瞬にして炎に包まれて壊滅し、大混乱の中で臓器そのものが行方不明になってしまいます。15年後、臓器の一部は完全に人間体の形状へと再生した形で見つかるのですが、そこで問題となるは「人間性の定義」そのものです。それをどういう存在としてとらえるのか、途方もない力で本来の姿をゆがめられ、変形させられた人間としてみるのか、完全に人間から逸脱した別種の生物としてみるのか、さらにもっといえば人間の生存権をおびやかす脅威としてとらえるのか。この物語には三人の科学者が出てきますが、三者三様の価値観の中で激しく対立する場面も出てきます――ただ、悲惨なことに当のフランケンシュタインにしては、そのようなことはまったく彼の理解を超えたことなのですが。
この「魚舟・獣舟」の世界では、主人公の属する種族は、何らかの遺伝子工学的な処置を受けており、女性は出産の際に通常の人と<朋>とよばれるサンショウウオ型のヒトを出産します。<朋>の方はそのまま海に流され何年かたつと、ふたたび血を分けた人のもとに帰ってくる。このとき、人と<朋>は「操舵者と舟」という共生関係をむすび、<朋>はそのときから<魚舟>とよばれるようになる。そして、背中に人間が居住できる外骨格を形成し、体長が約三十メートルという途方もない姿に成長します。
物語で重要な意味を持つ美緒は、こどもの時に<朋>にちょっとしたいたずらをして大けがを負わせた挙句、そのきずなを知らずに断ち切ってしまいます。彼女はおとなたちから<朋>と人間との関係を知らされ、はじめて重い罪の意識を持つのですが、成人したときには<朋>に対して血を分けた兄妹、姉妹、姉弟、あるいは、みずからの分身といっていいほどの、人間が他者に対して抱くのと同じ感情を抱いていますね。
一方、人との絆を失った<朋>は美緒という<操舵者>のいないまま成長し、<獣舟>というはぐれ者になってゆく。その後、不気味な、予期しない変貌を遂げていくわけですが、美緒は<朋>に対して深い感情を抱きながらも、この存在の持つ得体のしれなさも十分認識しており、「あらゆることを想定しておいたほうがいいわよ。人類はそれだけのものを作ってしまった」 という言葉が示すように、心の中にはもうひとり、事態を冷静に見つめている自分というものがいます。 彼女もまた、フランケンシュタインではないにしろ、その奥底では「人間性」をめぐって大きく揺れていたんですね。 |
上田 |
|
「フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン」は観ていないのですが、ご紹介して頂いたあらすじを読むだけで非常に興味をそそられます。私が考えていた方向性も、まさにそれと同じものです。
美緒は自分の過ちを通して、意図せずに「世界の構造と真実」を知ることになった人間です。あの悪戯がなければ何の疑問も抱かず、〈海上民の世界〉だけで幸せに暮らせたでしょう。あるいは罪を犯した後でも、何も行動せずに罰だけを受け入れていれば、他のことを何ひとつ知らず、別の意味で幸せな人生を送れたでしょう。
けれども彼女はそのいずれでもなく、取り返せないものを取り返そうとして、その結果、世界の秘密を知ってしまいました。その過程で、人間の定義について、考えることもあったでしょうね。知ろうとした事柄以上のことを知ってしまったとき、その重さに潰されないために、冷静に自分を支える「もうひとりの自分」が必要になった。それが彼女にとっての成長、大人になるということでした。
たぶん彼女は、いろいろと調べていく過程で、獣舟が人間にはコントロールできない存在であることに気づいたでしょう。しかし〈変化する存在〉であるならば、どこかで、人間との関係性を少しでも変えられるのではないかと考え、行動した。それは結果的に悲劇しかもたらしませんでしたが、とても人間的な、ひとつの生き方であると思います。 |
(次号へ続く) |