表題作の「五人姉妹」 映画とかマンガなどで一般的にクローンを描く場合、クローンとオリジナルのアイデンティティを巡る葛藤という描かれ方が多い様な気がします。 オリジナルである葉那子と四人のクローンの出会いを通してこの作品の描きたかったことはなんでしょう。 もちろん葉那子の、クローンである姉妹に対する愛情もあると思いますが、うがった見方をするとSFでは良く取り上げられるテーマである「if」の世界ではないかと思います。 もし「**の時に**していたら、私の人生はどうなっていたのでしょう」。この誰もが抱く普遍的な問いかけを「クローン」を登場させることによって、タイムマシンに頼らずとも実現させているのではと思います。 一流企業のキャリアである美登里、育てられ方が誤ってしまったため精神的に卑賤になってしまった萌、精神を病んで薬物中毒者になり入院している美喜、スポーツが得意な湖乃美、四人全員がもしかしたらそうなったかも知れない葉那子の姿ですね。もし四人全員とトーストに穴を開けて食べることができたらとも考えたのですが、やはり「氏より育ち」、詮ない話ではあります。
「ホールド・ミー・タイト」 三十路を前にして揺れる女心とでも言いましょうか(笑) ネットに耽溺できるほど若くはないと言いながら、その実ネットに憩いを求める女性心理の機微が細やかに描かれています。この作品の場合、水木が現実社会のバーテンダーであって、向陽美がその店に通う客であっても十分成立する話なんですが、<抱かれ枕>等々の小物がスパイスとなって、向陽美の恋人を求める切なさがよりいっそう際だったものとして感じられました。
「KAIGOの夜」 親が介護される存在となっている私としては身につまされます。ロボットの存在を借りてえぐり出した、介護という行為。犯罪者は全員、何年か老人を介護するボランティアとして働くことを義務づけましょう。
「お代は見てのお帰り」 『博物館惑星』の後日譚というより、偏屈オヤジと息子の物語だな(笑) どこにでもありそうな親と子の話でも、菅浩江さんの手にかかるとこんなにもきらめいて見えるというお手本ですな。
「夜を駆けるドギー」 ネットに耽溺する"コープス"というハンドルの少年。彼が犬を模したマシン・ペット「どきどきドギー」を所有しネットにファンサイトを開いてから世界が変わった。かの『電車男』が'04年ころの話ですから、菅さんはそれより3年ほど前にこういう作品をモノにしていたわけですね。 この現実のマシン・ペットというところが菅浩江さんのバランス感覚ですね。『電車男』を小説として読んだ時の面白さは、主人公の書き込みに対するオタク達のコメントの面白さなので、掲示板内で完結しちゃってますよね。で、例えばセカンドライフのようなところで、アバターが飼う犬にしても良かったんだけど、やはり少年は走り回らなきゃ。若いんだから(笑) でも、理想のマスターとかドギーにとっての本当の幸せとなると作った大人の思惑が見えてきますね。それこそ“逝ってよし”
「秋祭り」 TBの出自を持つ主人公。神を求める彼女の心境に、菅さんのメッセージを見ました。たぶん、選別された人の受精卵を使っての人工授精は、今後とも許されないと思うのですが、食料や家畜には許されて人間に許されないとしたら、それこそ人間の思い上がりなんだと思います。
「賤の小田巻」 容色の衰えた大衆演劇の座長がAIターミナル入りする。彼の息子の元に、なぜ入所基準の厳しいAIターミナルに入所できたのかを記事にしようとする記者が訪ねてくるが…… ハレとケで言えば、歌舞伎などの古典芸能が「ハレ」で、大衆演劇などは賤しい「ケ」であるかも知れない。しかし真の芸の道はそういう出自にあるのではなく、その道を極めようとする役者の心根にあるはずだというのが良く理解できます。
「箱の中の猫」 シュレディンガーの猫に題材を取った恋愛譚。私には非常にロマンチックに読めたんですが……
「子供の領分」 なんと『プリズムの瞳』の前日譚だった。あ、少し違うかな。マサシの純な心は、『アイ・アム』と通ずるところがあるかも。 |